8月26日説教のポイント
「その名をとどめるところ」
聖書 列王記上第8章27-32節
伝道師 三輪恵愛
1. ソロモン王の神殿奉献の祈りから知らされること
大勢の会衆を代表して、ソロモン王が神様へ神殿奉献の祈りをささげていました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか(27節前半)」、大きな神殿を奉献しているにもかかわらず、ソロモンは神という存在について適切に語ります。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください(28節)」、神殿の立派さはそれ以上の存在である神様のご栄光を讃え、その御前に、王であっても僕の一人だと遜ります。「どうか、罪を赦してください(30節前半)」、神に身を向けられないことを認め、赦しを願います。
2. 教会の祈りに至る、新しい道筋「わたしの名をとどめる」
ソロモンの祈りから大切なことを示されます。ところが、32節には厳しい言葉も語られていました。「あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらす」、神様へ身を向けられない時もあることを誠実に見つめた時、「どうしてこの祈りが聞かれるだろう」祈りへの希望が失われてしまうかもしれません。そのような時にぜひ思い起こしていただきたいのが、「ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになったところです(29節)」の祈りの言葉です。
教会は「イエス・キリストの名によって」祈ります。罪への裁きを語るソロモンの目には、まだ悪に厳しく報いる神の姿しか映っていませんでした。しかしソロモンの祈りをも聞き届け、罪を赦す神の姿が示されたのです。人として生まれ、名を持つお方、イエス「神はわたしの救い」。またの名をインマヌエル「神はわたしたちと共にいます」、神は名前をもって祈りをささげる場所へ降りてきてくださいました。
3. どのような祈りもイエス・キリストの御名前によって聞かれる慰め
イエス・キリストは神でありながら人となって、弱さを知ってくださいました。「この祈りがはたして聞かれるのだろうか」、この問いは、どのような祈りであっても尽きることがありません。祈りの言葉も出てこないような、生きることへの悩み、罪への苦しみを背負うときもあります。しかしそのような時こそ、イエス・キリストの名が祈りをささえてくださいます。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
このお方の名が留められたところが教会です。イエス・キリストの御名前によって祈られる祈りは聞かれると、確信をもって祈ることができるように、その名をここ教会にとどめてくださったのです。
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