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10月10日祈祷会 サムエル記下第12章1-25節

信仰の現実性は、神への信頼と背信、そして立ち返りが、わたしたちの日々の生活のなかで起きるところにあると思います。ダビデが前章で示してくれた立ち返りの姿は、罪に陥ることがあっても、神に向き直って生きる希望を示すものでした。次に記されることは、ダビデの王子たちが骨肉の争いを繰り広げるというものです。第13から14章にかけて記される王子たちの争いのなかで、ダビデは赦すことの難しさを味わうことになります。

1.信仰が子孫たちに伝わっていない苦しみ

事の発端はアムノンという第一王子が、あろうことか異母妹のタマルに劣情を催し、乱暴に及んだことでした。これに嚇怒した次点の王子アブサロムがアムノンを憎悪し、殺害に及ぶという恐ろしい事件が起きます。

アブサロムにしてみれば、愛する妹タマルが辱められたことへの復讐でした。アムノンが蛮行に及んでからアブサロムが実行に移すまで、二年の年月が流れています(13:23)。父ダビデはそのあいだ、アムノンにたいしてなんの咎めもしていません。アムノンがタマルへの劣情を抑えることが出来なかったことも含めると、ダビデの教育は甘さが残るものだったようです。アムノンを討ち果たしたアブサロムは、彼を溺愛していた父ダビデを恐れゲシュルに逃げていきました。第一王子アムノンを失った今、次の跡継ぎはアブサロムです。ダビデにとっては跡継ぎ問題も絡む、難しい問題をなりました。王の心は、まだ生きている跡継ぎアブサロムへと向いていきます。

2.ヨアブとテコアの女の知恵はダビデを諭す

 ここでまたしても大切な役割を果たすのがヨアブでした。バト・シェバ事件の時にはダビデの企みを忖度して、悪事に加担した彼でした。以前にも触れたように、彼はダビデに対してとにかく忠義を尽くすという点では一貫しています。信仰とダビデへの忠義と優れた知恵がブレンドされた人格と言ったところでしょうか。ここにテコアの「知恵ある女」という謎めいた人が加わって、ダビデへの働きかけが始まります。テコアはダビデやヨアブの出身ベツレヘムからすぐ南の町です。もしかしたらこの知恵ある女のことをすでに知っていたのかもしれません。

 ヨアブが授けた言葉とは、ナタンの時と同じく、ダビデに自分の置かれた状況を客観的に語り、言質を取るといったものでした。テコアの女に息子たちが殺し合ってしまったやもめを装わせ、ダビデにその罪を負わせないようにと懇願します。「唯一の頼りの一人息子が罪の償いに死刑になっては生きて行けません」と憐れみを乞います。ダビデは王として、この目の前の女性がもう苦しむことがないようにとの一心で、本当は作り話に過ぎない架空の息子の命が採られないように命令を下す約束をするのでした。ところがじつは、この作り話の息子がアブサロムのことだったのです。知らず知らずのうちに、ダビデはアブサロムを赦さずにはおれない状況に導かれていたのでした。

 それにしてもヨアブに言葉を受けたとは言え、このテコアの女の言葉は信仰的ではないでしょうか。「王様、どうかあなたの神、主に心をお留めください(11)」「神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません(14)」「はしためは、主君である王様のお言葉が慰めになると信じて参りました(17)」「あなたの神、主がどうかあなたと共におられますように(17)女性の言葉から、神様を信じていればこそ語れる言葉を抜き出してみました。名も残らない人ですが、あたかも預言者のような物言いです。「王様御自身、追放された方を連れ戻そうとなさいません(13)と、このあたりから「これはヨアブの指図ではないか」とダビデは気づいていたのではないでしょうか。一度出した約束は、それが作り話だとしても「右にも左にもそらすことはできません(19)。しかもダビデはアブサロムへと心が向いていました。「あの若者、アブサロムを連れ戻すがよい(21)ヨアブの思惑は成就したのでした。

3.その一言を引き出す・・・赦すことの難しさ

 ところで気になることは、ヨアブやテコアの女の献身的な行いの動機は、一体どこから生じたものだったのでしょうか。ヨアブがアブサロムの恩赦に導くようにここまで手を尽くしたのは、ダビデへの忠義一心ということで理解することも出来るかもしれません。それでは、ダビデと直接信仰的な言葉を繰り返したテコアの女はどうでしょうか。ヨアブになにか褒美の約束を受けていた、というわけではないようです。一つ言えることは、このままダビデとアブサロムが不仲になり、国が再び混乱することを望んでいなかったという点です。「民がわたしに恐怖を与えるからでございます(15)世が不安定になれば、立場の弱い人が苦しむことになります。テコアの女は平和のためにも力と言葉を尽くしたのかもしれません。

 あるいはヨアブも女性も、ダビデがアブサロムを赦すことができるように神に用いられたという言い方もできるのではないでしょうか。

ダビデはアムノンを失い、タマルの貞操も失うという葛藤にも陥り、さらにアブサロムが出奔するという、とても辛い状況に陥っていました。王として、また父としても苦しんでいたと思います。多くのものを失うなかで、赦すということはとても難しいことです。心理的には、自らの喪失が補填されない限り赦すことは難しいと説明されることがあります(喪失の補償)。怒りは「二次的感情」、大切にしているもの(権利や財産、プライド)が失われた時に生じるとも言います。ダビデにとっては失った何かが満たされないことには、赦すことはできなかったでしょう。テコアの女が語った言葉により、ダビデは復讐の愚かさや王の権威によって民に平和がもたらされることを諭されていきます。父としての喪失は残ります。しかし王としての立場でしかなしえない大きな業によって、民の慰めや平和がもたらされることを説かれています。より尊い事柄に思いを致すことでアブサロムの恩赦を引き出したのは、ヨアブと女性をダビデに遣わした神の知恵と言えるでしょう。

しかし「わたしの前に出てはならない(24)それでもダビデはアブサロムを素直に迎えることは出来ませんでした。なお赦しの難しさを遺すわだかまりの一言です。彼自身、バト・シェバ事件で罪を犯しました。それでも神様が再び受け入れてくださることの尊さを思い起こせなかったようです。「七の七十倍までも赦しなさい」と言われたイエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もあなたがたと同じようになさるだろう(マタ18:35)と言われます。赦しの難しさを超えるため「罪人としての自己認識」を気づかされるところだと思います。また、赦すことで「魂の平和を得る」ことも、聖書が示すところだと思います。同じくイエス様は「あなたがたは敵を愛しなさい。そうすれば、たくさんの報いがある(ルカ7:35)と言われます。赦すことは決して喪失の補填を諦めることではなく、魂の平安を得ることだとイエス様は語れられます。そのためには広い視野が必要なのかもしれません。テコアの女は「血の復讐をする者が殺戮を繰り返すことのありませんよう(11)と赦せないことがもたらす悲しみに触れました。赦すことは、それ以上罪を人類の間に広げさせない、贖罪的行為である(M.L.キング)とも言われます。十字架の赦しと愛こそが、私達の憎しみを拡げずに留めるための基とされていることを、感謝をもって確かめておきたいと思います。

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