10月24日祈祷会 サムエル記下第15章13-37節
前回はダビデの息子、娘たちを巡って起きてしまった恐ろしい出来事をみてきました。第一王子であったアムノンを殺害した王子アブサロムは、ダビデのもとから逃げ出します。王女タマルがアムノンによって蹂躙されたことへの復讐とは言え、異母兄弟が命の奪い合いをするわけです。尋常ではありません。複雑かつ苦しい心境に置かれた父ダビデでしたが、知恵の深いヨアブの計らいによってアブサロムを迎えることとなりました。しかし息子への赦しと和解を示すことができませんでした。そのことが、今回のアブサロムの反逆につながっていきます。
アブサロムは歳月をかけて巧みに策を練り、全国民の支持を取り付けます。かつて国民の心が、サウルから離れ、ダビデを支持する人々が増えた流れに少し似ているところがあります。あのときはダビデへと国民の心が移ったことをサウルは妬み、ダビデを殺めるようになっていきました。今回は、国民の心がアブサロムに移ってしまったことで、ダビデは支持を失い、命を狙われることとなります。ダビデは、かつては国民に好まれることで国を追われ、今度は国民から見放されて国を追われるという両極端の体験をする人となりました。しかしこうして見放されて国を追われる身分となったとき、本当に苦しみを共にしてくれる信仰の友を見出すこととなります。
1.異邦人であるガト人イタイの信仰的連帯感
まず一人目が、ガト人イタイです。19節によれば、ガト人は「外国人」または「亡命者」と言われています。これは新約聖書で良く見られる「異邦人」と同じ意味の言葉です。聖書では差別されることが多い境遇の人たちです。ところが、ダビデは「亡命者」であるイタイを大切にしており、イタイもまたダビデに信頼を寄せていたようです。ダビデはイタイに「戻りなさい」と言いますが、21節では「生きるも、死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです」と、命の危険も顧みず、ダビデと共にいることを強く望みます。「生きるも、死ぬも主と共にいる」、これはハイデルベルク信仰問答第一の問いかけを思い起こさせる言葉です。亡命者であるイタイ、またガト人だけでなく、クレタ人、ペレティ人、そして多くの家臣団がダビデについて行くことを心に決めています。この人たちは、それだけダビデ王と心を通わせたのでしょう。そして、いつも主人であるダビデと一緒に居ることが、苦しみよりも喜ばしいこと、平安なことと感じたのでしょう。
国を追われることは苦しみです。しかし彼らにとっては、その苦しみをダビデと共にすることが生きる道だと信じています。「苦しみ」と「平安」は、わたしたちの目には相反することが多いように映ることが多いと思います。しかし信仰のまなざしでとらえたとき、それは決して相反するものではありません。主と共に歩むことが苦しみを伴うことであったとしても、離れずにいることが平安であり、慰めであり、人生の意義であることを知らされることがあります。むしろ苦しみのときこそ、主が共に居てくださることを感じます。それは主が虐げられる民と共に居ることを先に宣言してくださったからです。ダビデも「亡命者」たちを守ったのでしょう。神はどのような民も分け隔てをしないことが御心であることを明らかにしていきます。「主はこう言われる。正義と恵みの御業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない(エレミヤ書22:3)」。
2.ダビデは「神の箱」をエルサレムにとどめる
国を追われるダビデと、次に言葉を交わしたのはアビアタルでした。彼ら祭司たちもダビデに追従しようと、神の箱を担いできました。神の箱、主の臨在を示す大切なもののはずです。これから苦しみの旅路になることが推測されるところ。神の箱があれば励ましを受けるのではないでしょうか。しかしこれには、ダビデは共に来ることを許しません。
25節に記されるダビデの言葉が、心境を告白しているようです。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とをみせてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」
このたびのダビデの逃避行は、思えば息子たちの罪深い過ちが始まりでした。またアブサロムを赦せず、受け入れられることができませんでした。父であるダビデはそのことへの責任を感じていたことでしょう。数々の悔いが残るなかで、神の箱を同行させることは御心に適うことではありません。自己正当化は信仰ゆえに陥りやすい過ちです。「聖霊は信仰と生活の誤りなき審判者」と告白するなかで、御心に適わないところが心に残り、今一つ確信が持てないならば、主の御心が聞こえるまで待つことも求められます。ダビデはここで待つことを選びました。神の正しさを恣にするのではなく、旅路の結末を委ねたのです。祭司と共にエルサレムに神の箱を残し御心に委ねたことが、結果として神よりの導きをはっきりと知らされる道備えとなりました。アブサロムの手の内に、ダビデの理解者を遺すことにつながっていきます。
3.ダビデの友フシャイをアヒトフェルに対抗して
祭司たちを神の箱と共にエルサレムに残すダビデに、最後に言葉をかけたのはフシャイでした。この人もアルキ人、異邦人です。しかしダビデの悲しみに伴うようにして上着を裂き、土を被っていました。数々の異邦人に慕われているところ、ダビデの慈しみは人種を超えていたことが伺えるところです。
さて、フシャイに触れられるまえに、31節で「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものしてください」との祈りの言葉がありました。そのあとに、このフシャイがダビデの苦しみに近づきます。ダビデはフシャイの知恵に見込んで、彼をもエルサレムに残すことにします。それは、アヒトフェルの助言を覆し、祭司たちを通してアブサロムの動向を伺うためでした。フシャイの登場によって、ダビデの祈りは実って行くことになります。またダビデが将来を見越して、心の通う信仰の友を遺していく決断も見事です。ここに、信仰を同じくするものが互いに信頼すればこそ、共に苦難に立ち向かうものたちの結束を示される思いです。
連れて行く友人イタイがいて、またエルサレムに残る友、アビアタルとフシャイがいます。苦しみを分かち合ってくれる友こそ、真の信仰の友。
教会のつながりもそうなのです。わたしたちが苦しいとき、主が共にいてくださることがわたしたちの慰めです。三一の神を信じるわたしたちともっとも身近にいてくださるのは聖霊です。さきほどは「生きる時も、死ぬときも主と一緒です」とのイタイの言葉を聞きました。これと響きを同じくするハイデルベルク信仰問答の問い一と応えを聞いておきましょう。
問一・生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答・わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
「苦しい時こそ、キリストがお近くに」これは試練を耐え忍んできた信仰者をつなげるものでもあります。ダビデと離れても、近くにいても、イタイ、アビアタル、フシャイ。彼らの信仰の交わりのなかに、救いの御業を起こされます。
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