10月28日説教のポイント
「汲み出そう、輪になって」
聖書 イザヤ書第12章
伝道師 三輪恵愛
1.宗教改革。ルターが提起した大切な問い「救いの確信はどこから得られるのか?」
昨年の500周年に比べればあまり騒がれていない宗教改革記念日。しかし501年になろうとも、10月の最後の主日はこのことを語らずにはおれません。教会の改革を歴史的に覚えるだけではなく、「御言葉による日々の改革(“改革派”の由来)」こそが、宗教改革の真髄です。ところがルターが生きた時代、教会は聖書を読むことを怠っていました。『贖宥状(ショクユウジョウ・神の怒りを宥めるお札)』の販売は、礼拝堂をきらびやかなものとし教皇や皇帝たちの生活を潤します。しかし病を得た人、傷ついた人、貧しい人たちはお札が買えず打ち捨てられていました。「お金で、人の業で、救いの確信を得る」とは聖書は一言も語りません。救いは人間の側にはないのです。
2.「見よ」「信頼する」「恐れない」神を知ったからこそ、確信を以て救いを語る。
預言者に「あなた」と呼ばれているこの人は、ひとたび神の怒りを向けられていたと告白しています。2節から考えれば神を「見ず」「信頼せず」「恐れて」生きていたのでしょう。わたしたちは自分自身の手元に救いの確証を置くことはできません。神が怒る方だからこそ、そのことを知り、神が怒りを翻されるからこそ、わたしたちは「救われた」と言えるのです。自分自身よりも確かな存在が「救い」そのものであることを、この人は知りました。「見よ」と言えるほどにわたしたちに近づいてくださった神イエス・キリスト!この人は、わたしたちが捉えることができるほどに近づいて来られた神を、すでに指し示すことで、救いの確信を得ていたのです。
3.「あなた」から「あなたたち」へ。救いの泉には命を新しくされる人が集まる。
「キリストよりもはるか昔の預言者の言葉が、イエス様を語っているのかな?」決して強引な解釈ではありません。「わたしの救い(イエシュアと発音)」が、何度も語られる2節から3節。わたしたちの側へ限りなく近づいてくださる神が、「わたしの救い」という名前、イエス様。神を見ることなく、救いの確かさを知らずに生きてきた渇きから、「あなた」は泉から水を汲み、潤されていきます。生き方そのものに浸透していくイエス・キリストの姿を示す御言葉に、渇きを潤される人が集まってきました。1節では「あなた」と言われていた人が、3節で「あなたたち」となって水を汲み、4節からは「あなたたち」が神を告げ知らせる群れになっています。イエス・キリストのもとに集まる「あなた」が救われた人の群れの一人です。輪になって水を汲む人たちが、すでに救われた「あなたたち」であると、神の言は語るのです。
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