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10月3日祈祷会 サムエル記下第12章1-25節

主なる神様に信頼する姿を示してきたダビデが、姦通と貪りと殺人の罪を犯しました。美しい人バト・シェバに目を奪われ、信仰の道を転げ落ちるようにして深い罪に堕ちていきます。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」との短い言葉で締めくくられた前章に引き続いて、主の裁きが語られるところから本章は始まります。

1.罪びとに罪を自覚させる預言者の務め

 再びナタンが登場します。彼がいつ頃からダビデと歩みを共にするようになったかは定かではありません。サムエルが世を去った後、ダビデに神の言葉を説くものとして遣わされたと思われます。第七章ではナタンは神様の永遠の契約をダビデに告げていました。いわば祝福に満ちた言葉を語り伝えたわけです。その同じ人物が、今度は厳しい諭しと裁きに言葉を語ります。語るべき言葉が与えられたとき、臆せずに真実を語る預言者の大切な役割が、ナタンの務めに現れているようでした。

ナタンは至極当然のように、王であるダビデに神より預かった言葉を語っていました。しかしダビデとナタンは主従関係にあります。信仰の道を踏み外しているダビデです。場合によっては、ダビデがナタンに怒りをぶつけて殺してしまうこともあり得ることでした。ナタン以降の預言者も、正しきことを語ったたがために、命を狙われ、時には命を落とすことがありました。エリヤ、イザヤ、エレミヤなど彼らは命懸けで、世の支配者に神の言葉を伝えました。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われていることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる(ルカによる福音書第1149,50)こう語られたイエス様も、預言者としての務めを果たされることで為政者の憎悪を受け、十字架への道を歩まれました。ダビデが犯した罪が「今の時代の者たちの責任」でもあると考えるとき、勇気を出して神の言葉に頼りながら、否を語る尊さを思い起こさせます。

 さてナタンは王を前にして神に立ち返るようにと罪を自覚させようとします。そのために語ったのは喩え話でした。ナタンには正義の言葉だけではなく知恵も授けられていたようです。人は真正面から批判を受けると意固地になるものです。喩え話に登場する「豊かな男と貧しい男」をダビデ自身にも比べさせることで、客観的に罪を気づかせ、ダビデ自身の言葉で罪への裁きを語らせます。

 イエス様も頑ななファリサイ派や律法学者、また悟るに遅い弟子や群衆に向かって、喩え話を豊富に用いられました。喩え話の効能は、語り手と聞き手がいったん同じ立場を得たところで、物事の善し悪しを俯瞰できるところにあると言われます。「誰がどう考えてもそれはおかしい」事実を御言葉によって一緒に照らされながら、一緒に罪に気づいていくところに信仰を共にする働きがあると思います。ナタンも預言者とはいえ同じ人です。彼自身も完全なる善の立場から何かを語ることは許されていないのです。ダビデと一緒に罪を見つめたうえで、それをダビデ自身が気づけるように導く。ナタンの厳しい預言の背後には、立ち返りを待つ神の愛が隠れているようにも思います。

2.喩え話が示すダビデの罪深さ

 ダビデはナタンの喩え話から「豊かな男はあなただ!」と決定的に指摘され「わたしは主に罪を犯した」と告白します。こうしてナタンはダビデを立ち返りへと導くことになりました。ところで、この喩え話が示すダビデの罪とはどれほどの罪だったのでしょうか。過ちは美しいバト・シェバを見初めたところからはじまりました。ところが喩え話の中心には美人ではなく小羊が登場します。雌ということですから、これがバト・シェバを指すのでしょうか。「貧しい男」とは誰でしょう。

 喩え話が示すダビデの罪はバト・シェバへの横恋慕による姦通に限られたものではないようです。3節にはこの貧しい男がどれほどこの小羊を愛していたかが語られています。とくに「彼はその小羊を養い」という語は、通常家畜に用いられる言葉ではなく、神が人を継続的に生かし続けることを示す言葉です。貧しい男は小羊をひとかたならぬ愛をもって育て、家族同様に大切にしていたことがわかります。かたや「豊かな男」は「持っていた(2)つまり所有物としてしか考えていません。この豊かな男は、貧しい男の大切な愛を取り上げて、物同然に扱ったのでした。

 この喩え話は「豊かな男がダビデである」という一点を定め、あらゆるところでダビデの権能が人々の愛を台無しにしてしまうということ、いまやダビデはその立場にあることを自覚させようとするもののようです。もちろんウリヤが貧しい男の一人なのでしょう。彼はバト・シェバを奪われ、自分の命も奪われました。ヨアブはどうでしょうか。彼はダビデの企みの片棒を担がされ、罪に加担させられました。バト・シェバは言葉少なく受け身でした。権力と罪に抗えない姿を示しているように思えます。彼女もダビデの命令によって、ウリヤとの結婚生活を破滅に追いやられました。「豊かな男」王としての大権を持ち、妻も子にも恵まれ、何不自由ないダビデが、関わる人々の愛を物のように扱った挙句に悲しい罪を引き起こしたのです。喩え話はダビデの罪の広さをも示します。

さきほどイエス様の「今の時代の者たちはその責任を問われる」との厳しい御言葉を聞きました。本来は誰しも神も御前に「貧しい人」であって、それゆえかけがえのない小羊すらも大切にする愛によって心を豊かにされるものです。それなのに「豊かな男」のように、小さな愛すらも物のように扱い奪っていくものによって、悲しみが絶えず引き起こされています。だからこそ、今の時代の預言者でもある教会は、「豊かな男」に現れていた世の罪を神の言葉によって示し、立ち返るように導く務めが委ねられていると言えるでしょう。

3.再びダビデの信仰の姿に現れる命の力

ダビデの罪が、生まれて来た子の死につながっていきます。なんと悲しいことでしょうか。いったいこの子になんの罪があるのかと考えてしまいます。しかしこの悲しみがダビデの信仰を立ち返らせることとなったのでした。「わたしは主に罪を犯した(13)と告白したダビデは、最後まで主に子の回復を祈り願う人へと立ち返ります。さらには子の死の後に「主の家に行って礼拝する(20節)」人にさせ「わたしはいずれあの子のところに行く(23)との命の真理を語らせます。

聖書には多くの幼子の死が語られます。イエス様がお生まれになったときヘロデによって多くの幼子が犠牲になりました。この事件は神様の無慈悲と無力を示すのではなく、むしろ世の支配者の愚かさ、惨たらしさ、狂気を示すことになりました。ある信仰者は、幼子の死によって「いずれあの子のところに行く」とのみ言葉を信じ、信仰を与えられました。短い命ゆえに悲しみは一層深く感じられます。神様が大切な尊い使命をその子に与えたのだと信仰によって信じたいと思います。この子の死によりダビデは大きな責任があることを自覚し、信仰者として、王として再び主に信頼して歩むものへと立ち返ることとなりました。

見た目の美しさに惚れ、バト・シェバを物のように扱ったダビデですが、共に深い悲しみを負ったことが夫婦の絆を深めたように思えます。「ダビデは妻バト・シェバを慰め(24)今度は愛おしい伴侶としてあらためて迎えました。立ち返りのもとに生まれた子が「主に愛された者」とも名付けられる知恵の王ソロモンとなったのでした。

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