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10月31日祈祷会 サムエル記下第16章5-23節

ダビデにとっては再び国を追われることとなった今回の逃避行です。苦難の旅路を覚悟するところですが、続々とダビデのもとに追従者が集まっていました。同行するイタイがおり、エルサレムに残りながらダビデと通じるフシャイ、アビアタルたち神の箱を守る祭司団。これほど味方がいるならば、この逃避行も一時的なものに過ぎないのではないかと、楽観的に受け取ることもできるでしょう。 

ところが今日の箇所では、ダビデを心から憎む男が一人、現れました。また後半では、頼りにされるべきフシャイは、働きもなく沈黙しています。やはりダビデの二度目の逃避行は多難なものと、神様はお定めになったのでしょうか。

1.アビシャイを制す、ダビデの受容

屈強な兵がダビデを守っているにも関わらず、シムイが石を投げつけてきました。「出て行け、出て行け。流血(血まみれの)罪を犯した男、ならずもの(7)この人がサウルにどれほどの寵愛を受けていたかはわかりません。しかしサウル王家に仕えていた彼にとって、ダビデは「王位を奪った」者でしかありません。それにしても、シムイのなんと悲哀に満ちた姿でしょうか。切りかかるほどの勇気や手練れはなく、呪って石を投げることしかできません。それでもダビデが憎くて仕方がないのです。ヨアブの弟アビシャイは、以前にも出て来た剛の者です。アビシャイにしてみればダビデが大切な主君ですから、怒り心頭です。彼がとびかかればシムイはひとたまりもなかったでしょう。

しかしダビデはそれをさせません。「主がダビデを呪えとお命じになった(10)」「主の御命令で呪っているのだ(11)とまるでシムイは神の使いとしてダビデを呪っていると受け止めています。これはダビデの弱気から出たものでしょうか。

前章のダビデの祈りの言葉には、裁きに委ねる言葉がありました。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように(1525-26)このたびのアブサロムの反逆は、ダビデが「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている(11)と言う様に、王家の内紛です。ダビデ自身にもまったく責任がないとは言えない逃避行です。さらには、シムイが「流血の罪」と言う言葉に、バト・シェバ事件のとき己の欲望のままに勇者ウリヤを策略で殺したことや、王子アムノンがアブサロムに殺されたことなどが頭をよぎったことでしょう。この旅は、前回と異なりダビデが内省を促されているとも受け取れるものです。ですから、ダビデは神様がどのような審判をくだされるか委ねています。その信仰の在り方を示すかのように、シムイの呪いと石投げをそのままにしました。シムイが投げた石がダビデに当たったかはわかりませんが、呪いの言葉は胸に突き刺さったことでしょう。「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない(12)委ねて語る言葉にも、審判を慎んで受ける心持ちが現れています。

2.アヒトフェルの提案とフシャイの沈黙

15節のまえに「一方そのころ」などと挿入すれば、あたかも鮮やかに場面転換されるかのような一幕です。まなざしはアブサロムのエルサレム入城へと一気に向けられます。聖書は、主なる神様がまなざしを向けられるところに、読者を連れて行ってくれます。ダビデが苦しみを受け入れているころ、得意絶頂のアブサロムがどのような歩みを見せているか、対照的な父と息子の姿をわたしたちに見せてくれます。

可愛い小ロバにのってイエス様が入られたはるか昔。多くの王様は威風堂々と軍馬にまたがり、民を力ずくで支配するために兵士と共にエルサレムに入城します。アブサロムもその一人でした。そしてアブサロムの帷幄の知恵者としてアヒトフェルも共にいました。先ほど触れたように、このアヒトフェルの知恵に対抗するために、ダビデに気持ちを通じているフシャイがエルサレムに残ったわけです。フシャイが「王様万歳、王様万歳」とアブサロムに取り入る姿は新王朝の獅子身中の虫となるための一芝居です。

さっそくアヒトフェルは人民を掌握するための策を講じます。それにしてもなんとおぞましいことか、王子アブサロムに父ダビデのハーレム(後宮)に入れという提案。恥知らずのようにも聞こえます。当時の習わしでは、為政者の代替わりのときはハーレムを征服することは、人民への代替わりの宣誓の意味も含まれていました。そしてアヒトフェルが提案するように、ダビデの憎しみを買うことで、アブサロムの人気を一層高めようとする狙いもありました。

王が人を治めようと考えるのであれば、アヒトフェルの提案は理屈に合ったことなのでしょう。それならばフシャイは、今こそこのアヒトフェルの提案を覆さなければなりません。彼はそのためにエルサレムに残ったのですから!しかしここではフシャイは沈黙を保ちます。まだアブサロムにお目通りしたばかり、まずは慎重に控えたのかもしれません。

アヒトフェルの言葉は「神託のように」よほどの知恵者だったのでしょう。しかし彼の提案に神の畏れや、人への憐憫はあるでしょうか。ダビデのハーレム、いわばアブサロムにとってはかつて母のようにお世話をしてくれた女性たちを蹂躙させるのです。彼女たちはダビデが逃避行に連れて行けないと判断した弱い立場の人たちでした。またアヒトフェルはイスラエルの人々に対して「心を操作する対象」としてしかまなざしを向けていません。いかに優れた知恵とは言え、神への畏れと人への憐れみが失われれば地に堕ちます。今、神を畏れず、衆目や人気を求める政策が、どれほど立場の弱い人々を苦しめているでしょうか。

3.まず神を知り、そして人を知る、この順序

宗教改革の記念日は、聖なる御言葉が神様が御自身を顕すために与えてくださったことを、再び確かめた時として覚えます。改革者カルヴァンは「聖書によってまず神を認識し、そして人を認識する」この順序が大切だと語りました。神様は聖書によって、まずご自身の聖なるお姿を知らせています。その啓示として聖書を読み、しかるのちに神様のまなざしから、人を知ります。

今日はまずダビデが神の審判を甘んじて待つために、シムイの呪いを受け入れる様子を見てから、アヒトフェルの無残を知りました。この記され方、読まれ方も、神様のまなざしを知らされてから、人の有様を知ったことになります。

聖書を人間の「自分探し」のために読み始めれば、律法的に読まれたり、難解な倫理の書物として読まれてしまいかねません。そうではなく、聖書はまずイエス・キリストの証しとして示されます。信じる者の罪を赦し、義としてくださる神の啓示という点で、かたじけなく尊く、そして人のあるべき姿をイエス・キリストの御姿を通して知らされていきます。礼拝を大切にするわたしたちは、毎日曜日に神様の啓示を聖書から告知され、そして回心を経て、人としてのあるべき姿を新しくされながら、取り戻していきます。改革者が再発見してくれた聖書の読み方に従って、礼拝を大切にしています。その点、神様が御自身を知らせる順序に堅く従っていると言えるでしょう。

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