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11月21日祈祷会 サムエル記下第19章10-40節

 王子アブサロムの死はダビデにとって痛恨の極みでした。王としての立場も忘れ「アブサロムよ、アブサロムよ」と嘆きます。しかし周囲の状況は彼に、父ではなく王であり続けるように求めています。今日、お読みしたところの直前では、ヨアブが嘆き続けるダビデを叱責する一場面もありました。一度、王として選ばれた人に苦悩が重なります。導きを求める民は、なお王を求め続けます。

本章は、ダビデが耐えがたい試練を通して王としての召命を革め、信仰が、深みと円熟味を増していることを証ししているようにも思えます。彼は王としての立場を思い出し、民の望みに応え、赦し、執り成し、友を祝福します。主に召し出された王、祭司としての務めを果たしていきます。

1.移ろいやすい民の声でも、寛容に応える

「イスラエルの諸部族の間に議論が起こった(10)アブサロムの反乱はいわばイスラエル諸部族内の内紛でもありました。ユダ族の一部を除く他の諸部族がアブサロムを支持したことから始まった諍いです。担いでいた頭領が失われたことで、あらためてダビデのかつての功績を思い出し、「連れ戻そう」と言い始めます。それにしても、なんと虫のいい諸部族の議論でしょう。アブサロムのもとに知恵者アヒトフェルが居た頃は、その煽動に乗せられてダビデの命を狙わんとしていたのです。そのアブサロムがいなくなった途端に旗色を変えるとは、なんとも操の低いことかと思います。ところがそんな議論が耳に届いた時、ダビデは諸部族の議論を非難することなく、エルサレムに残した信頼する信仰の友、祭司ツァドクとアビアタルに使いを出し、ユダの長老たちを通してイスラエルの諸部族に働きかけるように頼みます。「あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか。王を連れ戻すのに遅れをとるのか。アマサに対してはこう言ってくれ、あなたはわたしの骨肉ではないか(13-14)」。このアマサという人物はアブサロムによってイスラエル諸部族の軍司令官に任命された人でした。ダビデはこの人の地位も守ります。アブサロムの命に従ったのだから、お咎めなしとしました。命を狙った諸部族に宛てて、随分と寛大な言葉だと思います。ダビデのこの言葉が同族ユダの人々の心を動かし、イスラエル諸部族がダビデを王として再び迎えるため動き始めます。

.ヨルダン川で悔い改めを赦し,諍いを執り成す

まずユダ族が同族の王を迎えるためにヨルダン川まで集まりました。このヨルダン川西岸に、ユダ族だけではなく、三人の人々も駆けつけていました。シムイはサウル王の一族の人、第16章でエルサレムから逃げ出したダビデたち一行に、遠くから「血まみれの男」と叫びながら石を投げていたあの男です。激昂したアビシャイが切って捨てようとしましたが「勝手にさせておけ。彼は主の御命令で呪っているのだ。」と、ダビデはそのままにしました。よくぞダビデの前に出られたものだと思うところですが、彼は自分の呪いの言葉を罪と知り、ひれ伏して「悪をお忘れください(20)と赦しを乞います。再びあのアビシャイが「主が油を注がれた方をののしったのです(22)と殺意を露わにします。しかしダビデは「お前を死刑にすることはない(24)と誓いをたて、赦しました。

同じくサウル家の従者であったツィバは、王の渡河を助けるために息子、召使を連れてかけつけました。ところがこのツィバは「王の目にかなうよう(19)駆けつけたとあります。じつはこの男は、やはり16章でダビデが逃亡する時に、一つの嘘をついていました。それは、サウルの息子メフィボシェトがダビデの逃亡について「イスラエルの家は今日、父(サウル)の王座をわたしに返す(16:3)と嘯いたと、虚偽を伝えていました。この虚偽が露見しても立場を守ることができるように、ダビデの危機にいち早くかけつけたことが、ほのめかされています。

 このツィバの虚偽は、ほどなくメフィボシェト本人の参上で露見します。サウルの孫にしてヨナタンの息子、足の不自由なメフィボシェトは、遅ればせながらダビデを迎えにきました。「彼は、王が去った日から無事にエルサレムに帰還する日まで、足も洗わず、ひげもそらず、衣服も洗わなかった(25)ダビデが逃げ出してから、その苦難を共にしていた証は、一朝一夕では取り繕うことはできません。見た目に明らかな動かぬ証拠です。ですから彼の証言には説得力があります。「主君、王よ、僕に欺かれたのです。あの僕が主君、王にわたしのことを中傷したのです(2528)と正直に語ります。

ツィバの中傷は虚偽であったことが明らかになりました。しかしダビデはここでも寛大に両者を受け入れ、しかも禍根が残らないように「お前とツィバで地所を分け合いなさい(30)と両者の間を執り成します。シムイ、ツィバ、メフィボシェトとダビデ逃亡の際に関わりのあった人々が集まる中で、ダビデはまことに深い憐れみと寛容をもって、壊れた人間関係を次々と新しくし、希望をもって歩めるようにと導いています。

3.王、祭司としてのダビデにキリストが映る

最後に登場したのは、80歳になるバルジライでした。ダビデは逃亡中に助けてくれたバルジライに恩義を感じ、エルサレムに迎えたいと伝えます。しかしバルジライはその気持ちを嬉しく思いながらも、高齢を理由に辞去し、僕キムハムをお共に遣わします。バルジライもダビデも「目に良いと映るままに」と語って、互いに心を通わせあっています。この祝福の言葉は「あなたのまなざしのなかで美しいと思えることをしてください」とも訳せます。相手を最大級に信頼していなければ言えない言葉です。なぜならば彼らはもう会うこともなく、そのまなざしが何を捉えるかはわからないからです。それでも「この人がなさることならば大丈夫」と互いの信仰に信頼し、この言葉をかけあいます。

かつて呪って石を投げてきた人、シムイ。嘘をついて取り入ろうとしていたツィバ。誠実な思いを持ちながらも、体の不自由から中傷を受けたメフィボシェト。そして逃亡中のダビデを支えた高齢のバルジライ。王として召し出されるダビデのもとに集う人々は、様々な現実の置かれた立場のなかで弱さを露わにしながら、ダビデと関わりを深めていきます。しかも、体に不自由があるメフィボシェトと高齢のバルジライの誠実を重んじる姿には、心を在り方にまなざしを注いでくださる主の愛の深さを映し出しているように思えます。

悲しみのさなかにあって、ダビデはこうした人々との関わりを拒絶しません。愛するものを亡くす悲しみに苛まれながらも、なお王としての立場に戻ろうとするダビデ。神の召命の厳しい一面を知らされるところでした。しかしダビデはその召しに応えます。しかも厳しい苦難を忍び、召命に応えているからこそなせる、円熟した寛容と信頼の姿を見せます。

ダビデが王として民に応え、あるいは祭司として赦し、執り成しながらエルサレムに入る姿は、すでにイエス・キリストのお姿を遠くに映し出しているかのようにも思えます。イエス様のもとにも、多くの現実的な困難を抱える人が、弱さを抱える人が、時には主の御前に罪を犯した人もひれ伏しました。主なる神は深い悲しみをも、腸が痛むほどに憐れみをもって知ってくださるお方です。ダビデの若枝であるキリストは、「主が油を注がれた方をののしる(22)なかで、王を求める民のもとに身をささげてくださいました。 

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