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11月28日祈祷会 サムエル記下第20章4-22節

エルサレムに再び入城したダビデには、新しい課題が突きつけられていました。ダビデと血縁にあるユダ族と、アブサロムに味方をしてしまった他の諸部族のわだかまりが残ってしまったのです。これより先、ユダ族以外の諸部族はイスラエルと表記され、ダビデの出身であるユダ族と区別されることとなっていきます。そして、やがては南北朝時代の分裂を引き起こす遠因となっていきます。さて諸部族の分裂に至る、小さな亀裂と言っても良いのが、このシェバの乱です。彼は、ベニヤミン族、すなわちサウルと同族の人です。すでにダビデと和解を果たしたシムイという人物がいましたが、彼もサウルと同族ということで、一時はダビデに敵対しました。このシェバはダビデが再び王に即位に反対し、挙兵しました。

1.ダビデの期待に応えられない司令官アマサ 

シェバはこの章にしか登場しないので、人物像については限られたところから知るより他ありません。6「我々にとってビクリの子シェバは、アブサロム以上に危険だ。」14「選び抜かれた兵が寄り集まり彼に従った」シェバと比べられているアブサロムは、いわば知恵者アヒトフェルに大いに助けられていた人でした。彼自身の資質は、ろばに乗って逃げていたところ、頭が引っかかって抜けなくなるほどの王子様でしたらか、すこし凡庸なところがあったのかもしれません。それに比べて、シェバは「選び抜かれた兵」が集まってくるような、リーダーシップを持った実力者だったのだと推測しても差し支えないと思われます。

 さてダビデは、シェバに対抗するにあたり、アブサロムの頃から軍司令官になっていたアマサを用いました。これは、諸部族内の不一致を和らげるための一手でもありました。ところが、このアマサは「定められた期日に戻らず」ダビデの期待に応えられなかったようです。そこで、ダビデは、ヨアブの弟、アビシャイを、シェバ追討のために遣わすことにしました。ところが、その追討について行ったのが、軍司令官を取り上げられたヨアブでした。

2.ダビデを思うがあまりのヨアブの独断

この章は、後半のシェバ討滅のために尽力した人、ヨアブの人となりが、またしても注目されるところだと思います。シェバ追討のために出撃した彼らの前に、ダビデの期待に応えられなかったアマサが姿を顕します。そこでヨアブが、アマサをだまし討ちにするようにして殺害してしまうところは驚きを隠せません。これまでのヨアブについての記述も合わせて、ヨアブの人物像を少し考えてみたいと思います。

①ダビデの窮地を再三救っている。時には諫言も辞さない(19)。ヨアブはなによりもダビデのことを愛していた。

②しかしヨアブはアマサによって軍司令官をはずされた。かつてはアブネルによっても軍司令官をはずされたことがある(サム下3)

③ヨアブはダビデのことを考えるがあまり、独断をする人だった(アブネル暗殺、14章のアブサロム懐柔と殺害、今回のアマサ暗殺など)

④ダビデのために一層働くために、軍司令官という立場に固執している。

 これまでのヨアブに関わる記述を拾い上げると、ヨアブが感情的な思慮の浅いばかりの人物だとは思えません。アマサがユダの兵を集めることに失敗したことは、シェバと戦わなければならない状況において致命的でした。アマサを斥けるヨアブの行動は一応の所、筋が通っています。しかしダビデの命令を無視してアマサを殺害し、軍司令官の座を無理やり手に入れたことは、のちのちダビデの記憶にとどまるところとなりました。

ヨアブが主導権を握る形で、シェバ討伐の軍は前進します。さてシェバが立てこもったのは、アベルという町でした。ここでヨアブは、住民の一人である女性と対話しています。この女性は面白いことを言っていました。「昔から『アベルで訊ねよ』と言えば、事は片付いたのです(18)どうも、ことわざのように聞こえますが、これだけでは女性とヨアブの会話が成り立っている理由がいまいち明らかにされていません。

ところでわたしたちが手にしている旧約聖書は、ヘブライ語から直接訳されたものです。しかし、時にもう一つの有力な旧約聖書が参考にされることがあります。それは、紀元前一世紀ころにギリシャ語に訳された『七十人訳聖書』と言われるものです。ペトロやパウロをはじめ新約聖書の使徒たちは、よく旧約聖書を精読し引用しているが、それはこの『七十人訳聖書』からのものだと言われます。訳された年代が古いので、箇所によっては、七十人訳聖書のほうがヘブライ語聖書以上に詳しく記されていることがあります。

 この「アベルで訊ねよ」のあとにも、『七十人訳聖書』からの捕捉があります。それは、このアベルという土地が「律法に忠実な土地であって、保守的な風土であった」という解説です。したがって、律法でわからないことがあれば、「アベルに来て訊ねればわかる」ということなのです。

 そうなると、この女性が「わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。イスラエルの母なる町を滅ぼそうとしています(19)という言葉の意味もわかってきます。つまり「それほど信仰的な街をあなたは滅ぼすつもりですか?」と女性は問いただしているのです。ヨアブはもちろん、そのような神の教えに忠実な家を滅ぼすなど、まったく考えていないと語ります。「シェバがダビデ王に手を挙げたのだ(21)彼は、主なる神の律法に忠実であるし、ダビデ王を愛していました。その人柄は、ここからもうかがうことができます。こうしてヨアブは、シェバの乱を鎮めることとなりました。ところが、このアマサを殺してまで軍司令官に返り咲き、自分の意志を通したことは遺恨となります。かつてサウルからダビデの側についたアブネルを殺害したときと合わせて、ダビデの心に苦々しいこととして残りました。ヨアブはダビデ王に忠実でありながらも、あまりにも熱心過ぎて、無実のアブネルとアマサを殺害し、軍司令官の地位を手に入れるほどの人物でした。そのことがかえってダビデの心を苦しめることとなったのです。このヨアブについては、またしばらくたってから、生涯の最後を見ることになるのでここまでにしておきます。

3.主に仕える熱心さを隣人のために

 アマサがあまり期待どおりの働きをしていなかったとしても、ヨアブが手にかけるほどではありませんでした。アマサもまた主に仕えようとする人の一人だったのです。このように、あまりにも熱心であっても、互いに仕え合いながら、主のご用に共に仕える心を忘れては、御心をなすことはできません。イエス様は、左右の座につきたいと願ったヤコブとヨハネの熱心を認めますが、独断をたしなめ「互いに仕え合いなさい」と言われました(マルコ10:35以下)。神の救いは、共に生きる群れを建て上げることで実現していきます。イエス・キリストがまず、教会に仕えてくださる姿を見せてくださいました。わたしどもも、主の霊に導かれて互いに仕えるなかで、救いの業はおこされていきます。ヨアブの愛はいわが偏愛であって、いかにダビデを愛しているといっても、裏を返せば自分を満たすための愛でもあります。しかし聖書がイエス・キリストの御姿を通して顕す神の愛は、人に仕え、人のために用いられる、見返りを求めない無償の愛です。神より賜るこの無償の愛がなによりも先立って、教会を満たしてくださっておられること。そして互いに仕え合う群れとされていることを感謝し、喜びたいと思います。主が来られるアドヴェントが迫ってきています。

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