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12月12日祈祷会 サムエル記下第22章

ほかの二つに比べて、クリスマスの様子を詳しく伝えるマタイとルカは、救い主がダビデの子孫であることを記します。マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図(マタイ1:1)」、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい(1:20)とダビデとイエス様の血のつながりを強調しています。またルカは「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた(ルカ1:69)」「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった(2:11)とダビデの王権を思い起こさせる言葉を用います。救い主イエス・キリストのお姿を深めるにあたり、ダビデの人生にも親しむことが大きな手掛かりになることが伺えます。

サムエル記を追いながら、ダビデの信仰の歩みをたどってきました。いよいよダビデも老いの道にさしかかっています。第22章は、これまでの物語の記述から調子が変わり、ダビデの歌が記されます。この歌は、改めて詩編第18篇として詩編に収録されています。文言はほとんど変わりません。文脈に関わりなく独立した詩編としても、十分に賛美の歌声を導くものです。しかし人生を振り返るダビデが歌ったものとして、サムエル記下の終盤であるこの第22章に置かれていることにも、大きな意味があると思われます。

 当然のことながら、歌は本来、リズムと音階に合わせて歌うものです。もともとは竪琴を奏でながらダビデが歌ったものなのでしょう。歌声は、歌詞の内容を深めれば、一層美しくなると言われます。ダビデの歌声をわたしたちの歌声にするような気持ちで、歌詞を味わってまいりましょう。 

1.1節~20節「ダビデは神の臨在の前に」

 1~4節は歌全体の主題の提示とも言えます。賛美の歌ですから、ほめ讃えられるべきお方がどういうお方か、ダビデは口を極めてほめます。そのお方を充分に言葉で認めたうえで、4「ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる」と、主を呼び求めることから救いが始まることを示します。

 救いを求めるダビデは試練の淵に立たされています。5節から7節はダビデの置かれている悲惨が歌われています。「死の波」「奈落」「陰府」「死の網」と恐ろしい言葉が続きます。長くサウルに命を狙われ続けたダビデでした。そして逃げた先のペリシテ領内でも敵視され続けます。そこには肉体的な死の恐怖がありました。またバト・シェバと姦通し、彼女の夫ウリヤを死に追いやりました。預言者ナタンの叱責で罪の悲惨を思い知り、道徳的な悲惨を味わいます。子供たちは相争って命を落とし、臣下たちは勝手に振る舞います。魂にも死が迫る思いを何度も経験しました。人生の苦難のたびに「呼び求める」叫びは神殿に響いたでしょう。そこでダビデは主を呼び求めるなかに、その声は必ず「御耳に届いている」ことを確信します。

 そこでダビデは、霊的に揺さぶられる経験をしました。それは信仰の先祖たちがシナイの山で神の顕現を目の当たりにしたごとく、天地の造り主である方からの、魂に迫る臨在です。呼び求める叫び声のなか、苦しむダビデのまえに、主は罪への怒りをあらわにして姿を示します。8節から16節、まるで混沌とも言える世界ですが、厳然たる主の御支配の力強さを究めるものになっています。

 その世界を突き抜けて、一直線に救いの御手はダビデに届きます。悲惨のなかにある魂は、迫りくる死の恐怖に、滅びに瀕しています。しかし主の名を呼び求めるところに、「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる」のです。

 ダビデはまず主なる神がどのようなお方であるかを認めました(14)。次に、自らの悲惨に気づかされます(57)。しかしダビデが叫んでいるところは、全知全能の神のご支配のなかにあります(816)。そして悲惨から「主の名を呼び求める」者には、高い天からの神の交わりが及びます(1720)。<神認識➡自己認識➡創造主なる神の世界➡救いのために近づかれる神(贖い主なる神)と、主なる神の救いの過程が見事に歌い込まれています。

2.2131節「神との交わりが新しくされる」

 救いは神の側からのお近づきです。神との交わりが断たれていたと思われたダビデの人生でしたが、神の側から「再び交わりを新しくしようではないか」と恩寵を受けました。ただ御名前を叫んだだけにも関わらず!

ご存在を認めた人を救われる主なる神は、その人を正しき交わりに迎え入れてくださいます。それは神の義(ただ)しさを人に与えてくださる交わりです。「わたしの正しさ(צִדְקָתִ֑)」は「義:神との正しい交わり・ツェダカー」のこと。ダビデのように救いを求める者に恩寵として与えてくださる、正しさを回復した神との交わりのことです。神の恩寵を与えられた人は、信仰の歩みをはじめていきます。2631節は主の道に立ち返った人とそうではない人の歩みの違いのようにも受け取れます。ダビデは、信仰の歩みのなかで何度も神の道を逸れながら、神の底知れぬ愛の力にしっかりと捉えられていました。それは闇の道を歩むがとごき人生でも、その一歩先を照らしてくださるともし火によるものでした。詩編には「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯(119:105)とも歌われます。すなわち神の御言葉の臨在が、ダビデを捉え続けたのでした。

.36節~51節「信仰により強められるダビデ」

 こうして交わりを回復したダビデは、信仰を強くされました。自らがまことに罪の悲惨の前に弱いものであることを知ったからです。神を知り、己を知ることから始めた歩みが、救いへ至る道でした。強くされたダビデが王としてふるまった姿は、権力を振りかざして敵を屈服させるだけではありませんでした。罪や悪、神との交わりを壊すものに対する霊的な戦いを続けました。アブサロムとの戦いのなかでも、ユダ族と残りの諸部族の融和に心を砕きます。呪うシムイを赦します。欺くツィバを執り成します。虐げられ、討ち捨てられていたギブオン人に、神との契約のゆえに報います。晩年は、和解のために腐心した王でした。神の御前に再び交わりを回復した人の姿です。

 霊的な強さを与えられたダビデは、主の名によって勝利宣言を高らかに歌います。「主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。勝利を与えて王を大いなる者とし、油注がれた人を、ダビデとその子孫を、とこしえまで慈しみのうちにおかれる(51)」。どのような勝利にも勝るこの勝利の宣言は、主がわたしたちのために戦ってくださった、霊的な死に対する力強い御腕の勝利です。

ダビデの歌声にキリストの御姿が重なるようです。悲惨の際から叫ぶ声を聞き届け、神は御手を伸ばすように、天の高きから御子を悲惨のただなかにお贈りくださいました。ご自身が人として歩まれたお方の御言葉は、わたしたちの歩みを照らしてくださいます。恐るべき死に至りながらも、御自身がダビデの子孫として、死の前に主の名を叫び、霊を委ねる姿を示してくださいました。それは、血肉の争いには比べるべくもない、真の勝利。十字架に共に架けられた肉の弱さは、霊的な復活に与って、命の勝利に与るものとなりました。

霊の油を注がれた人は、救い主キリストのゆえに、とこしえまで慈しみのうちにおかれます。ダビデの歌は救い主を待ち望む、このアドヴェントにも相応しい響きをたたえています。〽ダビデとその子孫をとこしえまで慈しみにおかれる。

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