12月16日説教音声とポイント
「漲る。霊の御宿り」
聖書 イザヤ書第11章1-5節
伝道師 三輪恵愛
1.「エッサイの株から」キリスト預言の代表ともいえる一節をあらためて
「エッサイの根より、おおいでたる(讃美歌21・248番)」永く親しまれてきたクリスマスの讃美歌は、イザヤ書第11章1節の聖句が引用されています。この時期に相応しい御言葉として、耳に慣れている預言です。それにしても、なぜイザヤの預言が、イエス様の御誕生を示すものとして読まれるようになっていったのでしょうか。イザヤの眼前にあったものは、蹂躙され荒れ果てた国土。レバノン杉の大木すらも切り倒された(10:34)亡国の絶望でした。しかし切り株から、小さいながら新しい芽が、若枝が伸びようとしています。現実以上の神の御業を預言者は見出します。
2.イザヤの預言からキリストの姿が顕れる、主の霊の働きかけ
倒されたダビデ王家の父、羊飼いエッサイ。切り株から伸びていく、新しい希望をイザヤは見出しました。イエス様の父も、高貴の身分ではなく市井の大工ヨセフでした。イエス様も霊を注がれ、心にまなざしを注いで弱き人を救いに導きました。使徒パウロは「イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける』(ローマ15:12)」と、キリストの預言から救い主を説き起こします。イエス様を思い浮かべても差し支えないこの預言。それは、今のわたしたちとも交わりを求める救い主です。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊。思慮と勇気の霊。主を知り畏れ敬う霊に満たされる。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」霊的にわたしたちと交わるお方だとはわかっていても、重なる「霊」という言葉の雰囲気に戸惑う感覚は隠せません。
3.主の霊に、神の御言葉との交わりのなかで満たされる恵み
聖書が語る霊(ヘブライ語“ルーアッハー”)は決して怪しげなものではなく、この聖句が伝えるように「知恵と識別」「思慮と勇気」「主を知り、畏れ敬う」ものです。「霊」という漢字を尊重して理解を求めならば「万物の霊長(書経)」と用いられるように、すなわち人の内的な優れた力。それは感情的な興奮や理性を失ったものではなく、落ち着き、冷静、深い洞察に溢れ、絶望に希望を見出すものです。「旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊(日キ信仰の告白)」がわたしたちの内にキリストの御姿を顕かに示そうとされています。旧約の預言に、新約の証しに、何度も紐解くたびに立ちあがって来る救い主の御姿。主の霊は漲り、人間が人間らしくあるための希望を、若い枝のように生え出でさせてくださいます。
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