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12月26日祈祷会 サムエル記下第24章

サムエル記の上下巻、合わせて55章分を御一緒に聴いてきました。下巻の最後である本章は大きな区切りとなります。全体を大きくまとめる内容かと思いきや、なお御心の深さを感じさせられる、容易ではないことが書かれていました。イスラエルに怒り、ダビデを誘い、七万人もの人を打つ神の御姿が、御心を求める読者を揺さぶります。

1.罪を犯した人ダビデが、じかに罰を受けない罰

 いったいイスラエルがなにをしたというのでしょうか。はっきり記されていません。わたしたちは士師記を読んでまいりました。そこで強調されることは、神とイスラエルの関わりのらせん状の在り方です。救いの歴史は「背信➡救いの叫び➡士師の派遣と救い➡悔い改め」を、姿かたちを革めながら繰り返されてきました。ここでは単刀直入に「主は怒りを燃やされる」お姿から始まります。

 恐ろしいことです。主は怒りの主であり、炎のような熱情をお持ちのお方です。つい忘れてしまいそうになりますが、折りに触れて思い起こさせてくださいます。しかしぜひ、その怒りのなかにも愛情が隠されていることを、御言葉から汲み上げたいと思います。この「怒り」と訳される言葉は、「吹きかける息」「鼻息」「顔を向ける」という意味がこもっているものです。

 これまで、真剣に怒られた経験があるかと思います。真剣に怒ってもらった経験は、宝物です。それは愛情表現の一つでもあります。鼻息がかかるほどに、顔を向けて、過ちを正そうとして下さる愛です。神の怒りは、わたしたちの在り方に対する深い、熱い、命の関わりです。イスラエルが何度も何度も背いても、その都度、怒りながらも関わり続けた主は、忍耐のお方でもあります。

 そのお方が、ここではダビデを用います。もう一つの言葉もわたしたちを戸惑わせるものではないでしょうか。「主はダビデを誘われた」この言葉は明らかに「誘惑する」「刺激する」「唆す」という意味の言葉です。なんと神ご自身が、ダビデが過ちを犯すように仕向けておられます。なぜ神ご自身が誘うことがあるのか。しかし神はヨブを試み、またイエス様ご自身も荒れ野で試みにあわれました。あのとき遣わされたのは、サタンと呼ばれるものですが、やはり神のご支配のもとにいて、御心により遣わされるものです。ここでは主ご自身がダビデを誘って、御心を示されます。

 ダビデは人口調査の罪を犯しました。なぜそれが罪なのでしょうか。ヨアブたちは「良からぬこと」と感じたのか、ダビデの命令に戸惑っています。ダビデにとっても後ほど、それは「心の呵責」になっています。遣わされた部下たちは、人口調査をするために領土を限定しました。5~7節に当時の領土の境界線が記されます。また「剣を取り得る戦士」、つまり兵力が数えられました。

ダビデが配下たちにさせたことは、神の領域の限定であり、神の力の見積もりです。しかし御言葉は信仰者たちになんと語ってきたでしょうか。「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える(17:8)」「荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる(ヨシュア1:4)また300人の兵でも「いなごのような」数のミディアン人に勝たせてくだいました(士師記第8)。ダビデを苛んだものは、先祖たちに語られてきた全能の主の恵みと御業を見限ってしまう不信頼の罪でした。神の御業を人が限定することはできません。

2.難しい選択を迫られるなかでも、なにを選ぶか

ナタンと共にダビデに仕えた預言者、先見者ガドは三つの選択を語ります。どれも難しい選択です。死の陰が迫る苦しみです。ここでダビデは、「これにいたします」という答え方はできません。ただ「主の御手にかかって倒れよう」とのみ答えました。たいへん難しい、選び難い選択を迫られたときに、出て来る言葉が「主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」というものでした。難しい選択をしなければならない、しかし主の御手のなかにいるならば、あるいはそこに慈しみの御心をみだすことができるのではないか。「良く考えて」とガドは奨めましたから、これがダビデの熟慮の末の祈りでした。

疫病がもたらされ、七万人もの人の命が奪われることとなりました。ダビデにとっては、自らの過ちが無辜の七万人の犠牲をもたらしたという、辛い罰となりました。罰せられるべき人が罰せられず、無関係の犠牲によって、なお生きる人を立ち返らせることも主はなさいます。

恐ろしい怒りでありながら、「主は、この災いを思い返され」ます。「もう、十分だ。その手を下ろせ」とみ使いをとどめました。ひとたび怒る主の御姿は、なお惑える民を御手のうちに留めて、愛のうちに生かすためのものです。忍耐のなかで、主なる神は時に怒りを示されます。人の在り方に深い愛情を伴う、関心をお持ちのゆえです。わが子として慈しむからです。

.異邦人が無償で献げるものを買い取って贖う 

「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょう」自らの責任を言葉で告白するダビデに、再びガドと通して、主の言葉が語られました。いまやダビデによって、神との和解の場所、礼拝する場が整えられようとしています。それは、異邦人が所有する土地でした。エブス人は異邦人ではありますが、昔からエルサレムに住んでいた人たちでした。かつてはエルサレムを攻めるダビデに弓を引いたこともありました(サム下5)。そのエブス人でありながら、アラウナという人は、麦打ち場を礼拝の場所として提供し、献げ物すら献上します。

ところでエブス人はエルサレムに昔から住んでいた人たちです。昔、ダビデの先祖アブラハムがイサクを献げるときにモリヤの山を登っていきました。イサクを献げようとしたとき、主は思い返され、その手を留めます。「ヤーウェ・イルウェ(主は備えてくださる)」と呼ばれたその山が礼拝の場エルサレムとなりました。その時を思い起こさせるように、礼拝に必要な献げ物が、主によって、しかも異邦人を通して備えられていきます。

ダビデはここで御言葉に忠実に従います。彼がすべきことは「祭壇を築く」、礼拝する場所を整えるところまででした。献げ物を、王はアラウナから「いや、わたしは代価を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしは神、主にささげることはできない」と言って贖います。こうして和解の礼拝が、献げられることとなりました。

イスラエルの歴史を選びながら、主は怒りの姿もお示しになります。そして深い愛情をもって、わたしたちに関わってくださるお方です。忍耐をしてくださいます。その忍耐は、キリストのお生まれ、クリスマスによって極限に達したとも言えます。立ち返らぬものへ、無償で献げ物をくださったのは主なる神御自身でした。焼き尽くす献げ物は廃止され、まことの献げものが備えられていました。主は忍耐をもって備えてくださり、人を礼拝へと招く御心を示されます。

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