3月6日祈祷会:列王記上第9章
神殿奉献の礼拝が主の御前にささげられ、ソロモンの務めに一段落がつきました。「二十年を費やして二つの建物(10節)」を建てる大きな事業でした。しかしソロモンは、休む間もなく国のために事業を継続していきます。18節では街の建築をてがけ、26節では船団を組んで財を求めます。国の豊かさを求めて、王としての務めを果たします。精力的な姿とも言えるのですが、落ち着いて祈りに沈潜する時間はあったのでしょうか。年に三度、祭壇には献げものをささげ(25節)てはいますが、王としての務めの忙しさのなかで、ソロモンの心に少しずつほつれが生じたことも伝える第9章です。
1.ヒラムへの返礼に見る、誠意にかける姿勢
10~14節は、レバノン杉の伐採と運搬で支援を提供したヒラム(王上5章)に礼を果たそうとしています。神殿には大量のレバノン杉が建築材として用いられました。ダビデ以来の盟友であるヒラムの助力なくしては、今回の建築の達成は得られなかったといえます。恩義に対して礼を尽くそうというわけですが、果たしてソロモンの「ガリラヤ地方の二十の町を贈った(11節)」ところに誠意はこもっていたのでしょうか。
ガリラヤは、イスラエル北部の湖を含めた広い地域にあたります。高地と低地があり、水が豊富なところです。しかし暮らしやすい土地ではなかったようです。高地は水不足に陥りやすく、低部は水のはけ口がないために、マラリア蚊が大量発生する地域でもあります。福音書にはしばしば多くの病人たちがイエス様と弟子たちに殺到する様子が記されますが、これもマラリア蚊に襲われていた可能性が指摘されています。裏付けるように、19世紀に離散の生活から帰還したユダヤ人のうち、ガリラヤに入植したグループは、やはりマラリアとの戦いに追われたことが伝えられています。
ティルスに近接するガリラヤを視察したヒラムは「値打ちのない土地」と呼んで落胆を隠しません。ソロモンが返礼としてガリラヤを贈ったところに、果たして誠意がこもっていたのか疑問を感じるところです。さらに盟友とはいえ、神様に与えられた土地を異邦人の王ヒラムに送っています。神様から与えられた土地を他民族の首長に贈ってよいのでしょうか。ヒラムへの返礼に、ソロモンが熟考に欠いたところが窺えます。
2.忍び寄るエジプトの影と戒めの合理化
エジプトとの関係のなかにも、杜撰な対応が現れています。ソロモンはエジプト王ファラオの娘を娶ました(王上3章)。支配を確立するために、舅となったファラオからの助力もあったでしょう。こうした関係もあって、16節でファラオの軍事的な介入を止めることなく見過ごしています。たしかに討たれている異邦人のカナン人は、イスラエルにとっても敵でした。しかしファラオは頼まれてもいないのに、娘のために国境を超えて侵入し討ち果たしています。しかも得た領地をソロモンに断りもなく娘に与えています。これはイスラエルにとっては、主権の侵害とも言える行為です。しかしソロモンは、舅であるエジプト王ファラオに、それらのことを抗議しません。
20~23節は、労働力の確保と、階級の整備が行われていました。イスラエル人には大切な役目を与え、他の民族は奴隷として労役に就かせています。一見、合理的な方法にも思えますが「滅ぼし尽くすことのできなかった者(21節)」という記され方に、異邦人への厳しい対処を曖昧にしている姿勢が批判的に示されているようです。約束の土地に入ったころは、異邦人には厳しい対応が迫られていました。それは、イスラエルが信仰を持って約束の地で生き残るために必要な戒めでした。しかし、ソロモンは異邦人であることを不問にふして合理的に用いています。またイスラエル人は労働に就かせず、労働力の確保と同族の保護の一挙両得の策であったことがわかります。しかし自国民は優遇し、異邦人を奴隷として労役に服される仕方は、エジプトがかつて行っていたことと同じです。エジプトの介入を許し、戒めを合理化する手法に、忙しさに追われたソロモンは、主のみ心をたずねる機会が減ったことを感じさせます。
3.立派な神殿があっても礼拝がなければ・・・
時と財を費やして礼拝と祈りのための神殿を建てたにも関わらず、ソロモンに心のほつれが見出されるような第九章でした。神殿が神殿であるためには、霊とまことの礼拝がささげられねばなりません。多忙ななかにあっても手を休め、神の栄光に向き直って心をつくして礼拝することです。王としての務めを果たすなかで、かつての賢明が翳り、熟考が欠けていく姿から、ソロモンは大切な礼拝に、あるいは静かな祈りに、充分な時間を持てなかったのではないかと思わされます。
そこで神様が求めておられることを聞き取るために、今日の章の冒頭に立ち戻ります。ソロモンに語られた主の御言葉は「イスラエルの王座につく者が断たれることはない(5節)」との約束を果たすために「もしあなたが、父ダビデが歩んだように(4節)」するならば王座を存続し、それとは逆に「もしあなたたちとその子孫がわたしに背を向けて離れ(6節)」去るならば、わたしもイスラエルを捨て去るというものです。これは約束の成就のために、条件を提示しているようにも聞こえます。
これらの条件が破られたときに起こることとして「与えた土地からの追放(7節)」「神殿が廃墟になる(8節)」ことが示されます。どちらも厳しい報いです。しかし果たしてこれらの報いは約束を果たせなかった人間だけが被る損失なのでしょうか。
主なる神はエジプトから民を救い出して以来、永く守り導いてこられました。それほど愛を注いでこられた民です。また御自分が「名を置く」と言われた神殿が廃墟とされることも、礼拝を求める神ご自身にとって決して益ではありません。ここに示される結果は、神様にとっても損失です。つまり神様はご自身が被る痛みもご承知のうえで、「わたしが示す道を歩むように、他の神々に仕えることがないように」と語っておられるのです。
主はこうしてご自分の大切なものを損ねることになるとしても、民が安息の日には礼拝を捧げることを求めるお方です。神はイエス・キリストのお姿を通して、御自分を愛する御子ですら損なわれることを厭わない愛を貫かれました。十字架の傍を通る人々は頭を振り、侮蔑の言葉を語り「神殿を打倒し、三日で建てる者、自分で自分を救ってみろ」と物笑いにしました。悲惨のなかで、神はご自分が大切なものを損ねてでも魂の立ち返りを求める方であることを示され、そこに名を置かれたのです。この御方が、いまや二度と損なわれることのない神殿となって(ヨハネ2:21)、霊とまことを尽くす礼拝を導いてくださいます(同4:24)。
礼拝から離れてしまう試練は、いつ忍び寄るか分かりません。世事の忙しさに安息を忘れ、祈らなくても、礼拝しなくても生きていけると感じさせることもあるのでしょう。立ち返りを待っておられる主は、礼拝堂が廃墟にならないように、心を尽くして礼拝をささげる民の姿を励まします。それは「まことに神はあなたがたの内におられます(1コリ14:25)」と感じさせ、離れた魂を再び礼拝に導くために用いてくださるからでありましょう。
« 3月3日説教音声とポイント | トップページ | 3月10日説教音声とポイント(郡上八幡伝道所) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント