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3月27日祈祷会:列王記上第11章26-43節

 

栄華を誇ったソロモンの治世でしたが、晩年には反乱が起こり、ほころびが広がっていきます。それは彼自身の信仰のあり方と共鳴しているかのようでした。多くの女性を後宮に囲い、彼女らの神々を拝み始めます。繁栄によって得られた莫大な富を、自分を喜ばせるものに用いるソロモン。偶像と富と肉体の快楽へと身を委ねる生き方は、彼の心を蝕んでいきました。主なる神への信仰が残っていたとしても、それは世俗と相対化されたもの。ソロモンの信仰は一途さを失っていました。

 主は、ソロモンの変わり果てた有様に裁きの人々を起こされました。前回ハダドとレゾンが反乱を起こしましたが、両者とも「主が起こされた」人物であるところは見逃せません。厳しい事実ですが、信仰を糺すために起きる諸々の出来事にも、主の御心によって起こされることを知らされます。

そして本章では3人目の反乱者ヤロブアムが主に選ばれ、起こされていきます。ハダド、レゾンに比べ、ヤロブアムが起こされた次第、いわば召命の記事は少し詳しく記されます。

1.ヤロブアムの召命のためにアヒヤが遣わされる

ハダドとレゾンとの違いは、このヤロブアムは、ソロモンが認めた有能な家臣であった点です(28節)。先の二人のように私的な怨恨があってソロモンに背いたわけではありません。むしろソロモンとその国家に忠実に使える能吏でした。ヤロブアム自身には、ソロモンに仕えるにおいて不服不満はなかったようです。しかし預言者アヒヤが遣わされ、主の御言葉が語られたことが彼の決定的な選びと召しにつながりました。

預言者アヒヤは、言葉だけでなく視覚と感触を用いて、主が何をなさろうとしているかを伝えます。着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取るが良い。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える・・・』」(30節以下)

預言者は、主が何を起こそうとされているか、言葉だけでなく目に見える事象も用いて伝えようとします。これは後の預言者たちも用いた仕方です(イザヤ20:3:恥辱を現すために三年間、裸で歩く。エレミヤ28:13:鉄の軛を背負って捕囚を予告する等)。イエス・キリストはご自身の裂かれる身体と流される血潮を、パンを目の前で裂き、盃に注ぎながら、新しい契約のための犠牲を、十二人の弟子たちに語りました。言葉と行いを通して、主が何を起こそうとされるのか、聞き手の心は言葉で聴き、目で見ることになります。

この裂かれる「真新しい外套」高価で美しいものです。いわばダビデ、ソロモンと主が愛した二人の王を用いて築かれた神の王国の象徴です。しかし貴重で大切なものであっても、主がみ言葉をもって裂くのです。アヒヤが引き裂く姿はヤロブアムに主の御心を強く訴えるものだったでしょう。

「十二切れ」をもってイスラエルの十二部族を示し、そのうち「一切れ」はダビデの子孫に残されます。そして「十切れ」がヤロブアムの手に渡ります。すなわち十部族を率いることになるとの予告です。一部族が足りないように思われるのは、ダビデの出自であるユダ族がすでにダビデの子孫を示しているからです。これより後、イスラエル王国は分裂し、ユダとベニヤミンが「南ユダ王国」としてダビデの子孫に残され、その他の十部族は「北イスラエル王国」としてヤロブアムとその後継者に分かれていくことになります。

 

2.ソロモン、一途な信仰から離れた最期

アヒヤによるヤロブアムの召命が、どのようにソロモン王に伝わったのかは詳しく記されていません。しかしヤロブアムが叛意を持ったことが知られ、身を守るためにエジプトへ逃亡を余儀なくされます。召し上げた者を用いる時、つまりソロモンの臨終まで、主が「逃れの道」を備えて、ヤロブアムを守り養っておられるようにも思えます。

多くの事績を遺したソロモンでしたが、その最期の記され方は、なんと簡潔なことでしょうか。あれほどの栄華を誇った人生でありながら、終わりの時はすべての人と同じように訪れます。生前の事績が優れていただけに、際立つあっけないソロモン王の最期に、一抹の虚しさが漂ってきます。『ソロモンの事績の書』が厳密に何を指すのかは諸説があります。しかしソロモンの作とされる詩篇や書物『箴言』『コヘレトの言葉』『雅歌』が聖書に遺されています。多くの知恵や格言、愛の歌を遺した人です。ソロモンは豊かな人生を送ったはずですが、主への一途な愛を失った臨終に際しては、祈りの言葉も聞こえません。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい(コヘレト1:2)」と心境を綴った言葉が響いてきます。

3.「裂かれる神の王国」改革のための分断、離脱

若き日のソロモンの祈りを喜び、知恵と知識を与えた主なる神は、彼を厳しく裁きます。「わたしがこうするのは、彼がわたしを捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、わたしの道を歩まず、わたしの目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのように掟と法を守らなかったからである(33節)」偶像礼拝は明白な主の一途な愛への裏切りでした。しかしそれでも主は忍耐を示されます。「わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする(36節)」「こうしてわたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない(39節)」ハダド、レゾン、そしてヤロブアムを起こし、ご自身にとっても大切な価高い国を裂かれるのも「わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行う」ように、立ち返りを求めるためだと言われます。そのために、有能な家臣であったヤロブアムが召され、用いられることとなったのでした。

ソロモンは、生きておられる主のみ言葉を聴き続けることから離れました。そして物言わぬ造り物の偶像を拝むことで満足しました。み言葉によって新しくされたことを放棄したのです。主なる神への一途な愛が損なわれ、他の物に心が囚われはじめるとき、み言葉による改革は停滞します。

プロテスタントが起こされたとき、それはローマ・カトリックがみ言葉への信頼を失い、富、権力、欲望の虜になった時代でした。ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトン、宗教改革者たちは決して「カトリック憎し」といたずらに分裂と求めて立ち上がったわけではありません。彼らも当時の教会に誠実に仕える信仰者でした。しかしイエス・キリストが示す唯一の憐れみと赦しの恵みが教会から聞こえなくなったとき、神のみ言葉のみに聞き、絶えず心を神に向け直し、新しくされていく信仰を求めたのです。

「わたしの道を歩む」信仰者を求めて、主がその時代にふさわしい人々を選び、起こされます。一つであるべき教会が裂かれたことは、キリストの身体の痛みですが、主はそのどちらにも燃え続ける愛の灯火を遺されました。それは教会が絶えず裂かれたキリストの身体を思い起こし、み言葉によって新しくされるためなのです。ソロモンが若き日には神の言葉を謙遜に祈り求めたように。

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