« 2019年4月7日主日礼拝説教 | トップページ | 4月10日祈祷会:列王記上第13章 »

4月3日祈祷会:列王記上第12章

 

 

生涯を終えたソロモンはダビデの町(現在の東エルサレム)に葬られました。国を治めるにあたり、神と人に謙遜な思いで仕えることを目指した彼でしたが、最期は栄華と成功に溺れたものとなりました。人生をかけて「神と人に仕える」思いを貫く難しさを感じます。

 晩年にはハダド、レゾン、ヤロブアムによる三つの大きい反乱が起きます。また4節では「過酷な軛」と、ヤロブアムの口を通して、国民の不満も語られていました。富を稼ぎ出すために、いつしか国民には重い労役が課せられていたのでしょう。反乱と圧政による不満という国難にあって、ソロモンの子レハブアムが王に即位します。

1.レハブアムの即位に異を唱えるヤロブアム

指導者が代替わりするとき、後継者には吟味の眼差しが向けられるものです。ましてや、国が乱れつつあるとき、その次を担う王には一層厳しい視線が向けられていたでしょう。1節からレハブアムを王に認めるための手続きが記されています。ソロモンからは王位を譲られたレハブアム。しかし国全体の王として即位するためには、なおイスラエルの十二部族の承認を得る必要がありました。そのためシケムに全部族が集結します。

何事もなく王に承認されれば全イスラエルの王となったであろうレハブアム。ところが、ここでエジプトに逃亡していたヤロブアムを呼び返すものがいました。ヤロブアムは国民を代表して、父王ソロモンの圧政を弾劾します。彼の訴えで明かされることは、ソロモンの栄華は国民への過酷な労働を強いていたということです。前章では、このヤロブアムが有能な労役の監督であったことが記されていました。重労働の現場を実際に目の辺りにしてきた人の意見です。民からの訴えについてレハブアムは対応を迫られることとなりました。

返答を考慮するために、レハブアムは二つの人々に意見を求めます。ソロモンに仕えた長老たちと、共に育った若者たちです。長老と若者という対象的な人々。その意見も正反対です。長老たちは国民への圧政を止めるようにと勧めますが、若者たちはますます厳しくするように煽ります。「王は長老たちの勧めを捨て、若者たちの勧めに」従うことにしました。しかし、労働を一層重くすると宣言したレハブアムは、一気に反感を向けられ、国はますます混乱していきます。

2.「王は民に仕える」新約にも通じる理解

長老と若者が対立する意見を述べ、若者の意見を聞いた所、ますます国が乱れていく様子。この結果から聖書は、長老の意見を聞いておくべきであったと伝えているように感じます。長年王に仕えてきた長老たちは、ソロモンの知恵を間近に見聞きして、経験も豊富だったはずです。疲弊した国民を安らう時期にきていることを痛感していたのでしょう。一方の若者たち。「若者」は「子供」とも訳すことができるほどの幼さを含んだ言葉です。レハブアムと一緒に育ったということは、王侯貴族の子弟たちかもしれません。苦労も知らず、経験にも裏打ちされていない意見が、国を乱す原因となったわけです。先代のソロモンの知恵に比べれば、なんと稚拙なことでしょうか。

凋落へ向かうばかりのやり取りですが、そのなかで見落とせない言葉が二つあります。まず7節の長老の勧めです。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです」。王が先に民に仕えるように長老は勧めます。そうすれば、民も王に仕えるでしょうと。ここに、イエス・キリストも語られたあの教えに響くものが聞こえてきます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい(ルカ22:25-27)。かつてのソロモンは謙遜にも、国を治めるために、神と民に仕えることを祈り願った人でした。長老たちはソロモンの若い時の祈りと信仰を伝え聞いていたのかもしれません。

もう一つ、15「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された」。「主の計らい」、すなわちレハブアムが若者の安易な意見を聴き、民の仲が裂かれたのも、主の御言葉から起こされたことであると伝えます。

この「主の計らい」と同じ意味の言葉が、24節でも用いられています。レハブアムの言葉に怒った民が監督を殺害し叛意を露わにしました。またレハブアムも従わない十の部族に兵を挙げます。その戦を止めるために遣わされた預言者シェマヤが語る言葉に「こうなるように計らったのはわたしだ」と、主のご計画であることが語られていました。この言葉に諭されて、レハブアムは兵を退きます。

3.王権確立のために、ヤロブアムの「改革」

こうしてイスラエルの国はアヒヤの預言のとおりになりました。ユダとベニヤミンがレハブアムの手元に残り、残りの十部族はヤロブアムに従います。ヤロブアムは治めることになった王国が、再び戻ることがないための方策を考えます。「よく考えたうえで」思いついたことが、エルサレムの神殿から民の心を離すことでした。国土の端と端にあるベテルとダンに、金の子牛の像を築き、そこで礼拝を捧げるように仕向けます。またレビ族しか就くことができない祭司職を、誰でも就くことができることとします。さらに祭りの期日まで換えてしまいます。

数々の律法を破ってでも民の心を留めようとするヤロブアムの仕方。「エルサレムのみが礼拝所ではない」「誰でも祭司に就くことができる」と聞けば、後年の宗教改革のようにも思えます。しかしこのヤロブアムの改革は、むしろ自らの王位と権威の保全のための策略です。律法を安易に破っているところは、決して改革ではなく、明白な背信として聞くべきところです。

レハブアムも、ヤロブアムも、王位と権威を保つために民を従わせようとします。しかし混乱は深まるばかりです。聖書はそれもまた「主が起こされたこと」「主の計らいである」と度々、証をします。聖書は人が人を治めることの限界を露わにします。その上でキリストは、人を救い導くために、まず仕える姿を示されました。先程引用した御言葉の続きです。「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕をする者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」食卓の中心にある十字架が、民を救うために果たされた王としての最大の務めを告げ知らせます。受難節、キリストが仕えてくださったからこそ、教会が世に仕える群れとして召されたことを思い起こす時です。

« 2019年4月7日主日礼拝説教 | トップページ | 4月10日祈祷会:列王記上第13章 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ