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2019年主日礼拝説教「喜びに、屠られる」

2019年3月31日主日礼拝説教

「喜びに、屠られる」

聖書 ルカによる福音書第15章11-32節

伝道師 三輪恵愛

 

1.『放蕩息子の譬え話』に弟、兄、父が語られている理由とは
信仰に目覚めるきっかけとなる回心の体験。多くの人を回心に導いた『放蕩息子の譬え話』は弟の放埒な姿を示します。相続財産を手にして見知らぬところへ向かい、使い果たして凋落します。「放蕩の限りを尽くした」との言葉から不道徳な生き方が思い当たります。思い切って父の元に帰る弟。駆け寄り、抱きしめて迎える父。父子の姿に心を刺され、悔い改めに導かれる人も大勢いたでしょう。


2.弟がついに犯してしまう最大の罪「もう息子と呼ばれる資格はありません」
ところで不道徳な生き方にとどまらず、「目的を持たずに命を浪費する」との原義を持つ「放蕩の限りを尽くす」との言葉。与えられた命の浪費も含められています。父の財産を使い果たしたことが罪のようにも聞こえますが、弟はその報いを苦境のなかで十分に味わいます。「飢饉」「豚飼い」「豚の餌」どうしようもない不条理にも襲われます。そしてやっと「我に返る」弟の口から出てくる言葉が「もう息子と呼ばれる資格はありません」。愛しぬこうとされている父の心を知ろうとせず、先に自らを裁いてしまう弟。「放蕩」よりも深い弟の罪は「子」と呼ばれるほどに愛されている自分の尊い価値を、自ら放棄してしまうところにあります。


3.兄もまた「放蕩息子」、兄弟を同じ喜びの食卓に就かせるために父は・・・
弟の生還に納得がいかず怒る兄は「娼婦どもと身上を食いつぶし」と口を極めて罵ります。しかし弟が受けた苦しみを知らず、知ろうともしません。さらに「子山羊一匹くれなかった」と恨みを語りますが、彼もまた弟と一緒に父から「財産の分け前」をすでに受け取っているのです。恵まれた立場にあるにも関わらず弟の苦しみには心を寄せない、そして自分が受けた恵みを忘れて父を恨む。自分自身を見失っている兄も、父の傍にいながらにして「放蕩息子」失われた息子だったのです。しかし父はその兄弟の双方を執り成し、二人が同じ食卓に就けるように大切なものを屠ります。大きな喜びを示すために。天の父は御子イエス・キリストの十字架をもってしても、失われた魂の立ち返りを大いに喜ぶお方なのです。回心(弟)を経て主に仕え(兄)、神の大喜び(父)と共に喜ぶ生へと招く譬え話です。


【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

 

 

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