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4月17日祈祷会:列王記上第14章

ソロモン王の死後、その子息であるレハブアム王が南ユダ王国を受け継ぎます。また残りの十部族を治めることになったヤロブアムが北イスラエル王国の王となりました。両国は同じイスラエルでありながら、分裂は決定的となり相争うようになります。これより聖書は、南ユダ王国と北イスラエル王国の歩みについて交互に記すようになります。前回は北イスラエル王国への裁きの言葉が、祭壇での礼拝で語られるところを見てきました。これに応じるように、本章ではヤロブアム王に、幼い男子を亡くすという報いが与えられることとなりました。この厳しい報いから、ヤロブアムの背信がまことに罪深いものであったことを十分に伝わってきます。

1.背信の自覚が「変装」の小細工に現れる

前回は、南ユダ王国から遣わされた神の人が、ベテルに来て激しい裁きの言葉を突きつけました。金の子牛を祭り上げる、偶像礼拝の現場にまで赴いた神の人。彼の口から語られた裁きの言葉は、ベテルの祭壇が裂かれ、灰が地に撒かれるという具体的な事象を招くものでした。これに対して、今日の箇所が伝えるヤロブアム王への裁きは、我が子が病に冒されるというものです。神の人に対してしたたかに恐喝し、あるいは懐柔を試みたヤロブアム王でしたが、子の病にあっては自力で対抗することもできません。そこで、かつてヤロブアム王に北イスラエル王国での君臨を預言したアヒヤの元に、変装した妻を向かわせます。ヤロブアム王にとって、アヒヤは神の御言葉を語り、王の召命を伝えてくれた人です。ヤロブアムを奉公人の身から見出した預言者ならば、解決の言葉を与えてくれると見積もったのかもしれません。

 ここでヤロブアム王は、自らアヒヤの元に嘆願しにいくのではなく、妻に伝言を言付け、しかも変装させてアヒヤの元に向かわせます。老境のアヒヤは、目が不自由になっていました。しかし主の御告げによって王の妻の来訪を知らされており、訪れたヤロブアム王の妻をすぐに見抜きます。そして厳しい裁きの言葉、すなわち男の子の病が治らないことを告げます。王の期待は虚しく消え去っていきます。

 預言者アヒヤは、まだソロモンの家来の一人に過ぎなかったヤロブアムに遣わされ、主の召命を語りました(王上11)。彼が王に立てられた理由は、ソロモン王が晩年、偶像崇拝に傾いたことによります。いわばソロモンの背信に対する裁きのために、ヤロブアムは選ばれたのです。ところが、肝心のヤロブアム本人が、人心を集めるために礼拝を私物化しました。ヤロブアム王にとっては、言い逃れの出来ない背信です。しかも列王記上1228では、金の子牛をベテルとダンの聖所に奉戴するにあたり「よく考えたうえで」と記されていました。ヤロブアム王は自分が王として立てられた理由を理解していながら、それに反している自覚があったのです。

2.頑なさが回心と和解の機会を逸す

 この自覚こそが、自分は行かず、変装させた妻を遣わしたところにも現れております。すでに神の人から裁きの言葉を受けており、いまや子が病に冒されているなかで、それが自らの背信が招いたことだと気づいていたヤロブアム王。しかし自ら行かず、変装した妻を遣わすところに、背信に気づいていながら、率直に罪を認めず、聞くべき赦しの言葉を自ら求めようとしない、さらに大きな罪を犯しています。まだ子が病の状態のうちにヤロブアムが背信に気づいて、アヒヤに頼る思いが与えられたということは、ここではまだ回心と和解の機会が残されていたのです。しかし主に立ち返る大切な機会を取り逃し、変装の妻を遣わすところに、さらに大きな罪、すなわち神の御前に背信を認められない、素直に和解を求めることができない頑なさが現れることとなったのです。

ヤロブアム王の気後れが仕立てた妻の変装は、皮肉なことに、目が不自由になっていたアヒヤにはそもそも意味がありませんでした。預言者は、すでに主のお告げにより、ヤロブアム王の妻の来訪を知らされていました。主のまなざしの前には、どのような小細工も通用しないことを痛感します。ヤロブアム王の回心の機会は過ぎ去り、預言者から男子の死という厳しい裁きが語られるのでした。

しばらくの治世の後、ヤロブアム王は世を去り、その子ナダブが王位を継ぎます。北王国への裁きは、次の代へと引き継がれることになりました。さらに聖書は、北王国から南ユダ王国に視点を移します(21節以降)。ソロモン王の子レハブアム王も偶像崇拝の罪を重ねます。エジプトに神殿を蹂躙される事件を記しながら、神への信頼を損ねた国が、外敵からの侵入に耐えられず弱体化していく様子も合わせて記します。南北どちらも主の教えを聞かない国となってゆきます。

 イスラエルが南北に分裂し背信を重ねていく様子を通して、聖書は人の心がますます神より離れ、立ち返ることへ頑なになっていく有様を示します。ヤロブアム王に視点を戻せば、自らの背信を自覚しているからこそ素直に立ち返ることが出来ない、人の拭い難い本質を示されているようです。自らの背きを分かっていればいるほど素直に認めることができないヤロブアム王。神への向き直りを難しくさせている、人間の罪のもっとも御しがたいところを写しているのかもしれません。

3.頑なさを打ち砕くほどの憐れみ

人の心が頑ななことをご存知である主なる神は、それゆえ愛する御子イエス・キリストをお遣わしくださいました。ヤロブアム王の子アビヤは「いくらか良い」と言われ、イスラエル全体が悲しんだことから、罪を犯すことなく愛された子だったのでしょう。ましてや、父なる神は人の頑なさのために、独り子に十字架を背負わせるのです。

 主が十字架の上にあげられ「今こそ、あなたにわたしの霊を委ねます」と息を引き取られた時、その姿に、処刑場の監督をしていたローマの百人隊長は、己の任務も忘れて「まことにこの人は神の子であった」と神を賛美し、他人事のように見物していた群衆は胸を打ちながら家路につきました。御子の謙遜と従順さに顕れる神の愛は「神に立ち返るにはどうすればよいだろうか」「どう謝ればいいだろうか」「この罪は誰にも赦されないのではないだろうか」諸々の躊躇と頑なさを覆い尽くします。

 主の十字架の赦しは、神より差し出される和解の恩寵です。使徒はこのように証しました。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(コロサイ1:19-22)イエス・キリストのご真実によって、立ち返りを妨げる頑なさも、柔らかく、溶かされていきます。ご受難の夜が迫っています。

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