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2019年4月28日主日礼拝説教

 

「主の恵みに包まれて」

聖書 ルカによる福音書第24章36-49節

伝道師 三輪恵愛

1.復活のイエス様は平和なお姿、「平和があるように」挨拶されて魚を食べる

 イースターのお祝いを終え、教会は復活節からペンテコステ:聖霊降臨へと向かいます。教会の誕生、ペンテコステを「高い所からの力に覆われるまでは(49)の御言葉が予感させます。復活のイエス様は、その約束を語る前に弟子たちに姿を現わされました。「あなたがたに平和があるように(36)これはイエス様たちの言語で音にすれば「シャローム」つまり日常の挨拶です。そして弟子たちの前でガリラヤ湖畔にいた頃と変わらず魚を召し上がります。日常と変わらぬお姿のイエス様。十字架からの復活はユーモアすら伺えるほど、平和に満ちています。

2.「喜びのあまり信じられず」復活の喜びから、信じる人へと導かれる

 墓の前から帰ってきた婦人たちは、復活を信じられず、「こういうことを話していると(36)」とのエマオの報告(35節以前)を聞いても弟子たちには喜びが生じていませんでした。挨拶をかわし、魚を食べるイエス様にようやく喜びが湧いてきます。ところが「信じられず(41)信じるところにはまだ至りません。復活の主の平和に触れ、喜びが生じました。しかしまだ信じるには至らないところに、信仰の現実が示されます。イエス・キリストというお方を知る、初めの喜びが、人生において救いが実感されていく深い喜びへと、御言葉は導こうとしているのです。

3.生活の現場でこそ生じる不安、恐れに向けて、神の平和を告げるために

 「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。『次のように書いてある』(45)腹ごしらえを終え、聖書の説き明かしをはじめられるイエス様。聖書全体が救い主イエス・キリストの証しであり、これを信じる時「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる(47)その通りでありながら、聖書と日常になお隔たりを感じます。しかし隔たりを超える緒をイエス様は示されました。挨拶をかわし、魚を分かち合って食べた日常のなかで「一緒にいたとき(44)弟子たちに聖書を語られたイエス様です。神様の恵みから離れてしまったのではないか、不安、恐れが生じるのは常に日常生活のなかにおいて。そこでこそ御言葉は復活の主の恵みを示します。不安のなかにこそ、主の復活を信じさせてくださる神の恵み「高い所からの力」が伴う証しを。

【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

 

 

 

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