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5月15日祈祷会:列王記上第18章7-40節

北イスラエル王国の背信が深まるなか、主はエリヤを遣わされました。飢饉が襲う大地に、エリヤ自身も困窮に置かれます。しかし烏ややもめを通して主はエリヤを養い続け、御心が現れる時に備えます。「多くの日を重ねて三年目(1)アハブ王の暴虐から身を隠していたエリヤが、王の前に姿を現す時がきました。主は北イスラエル王国の民を真の主なる神の御前に招き出すために、エリヤをアハブ王のもとに送ります。


1.偶像崇拝と迫害の国での忍耐に救いの兆しが


偶像崇拝だけでなく、この王国では迫害も起きていました。アハブ王は、背信を糾弾し飢饉を告げたエリヤへの憎悪を募らせていました。そのため前章でエリヤは、ケリト川のほとりに身を隠していました。さらに后のイゼベルは、アハブ以上に主の御言葉を告げる預言者を憎んでいました。「イゼベルが主の預言者を切り殺す(4節)」バアル神への偶像崇拝に民を導く王と妃は、主なる神への信仰を守る人々を迫害していました。


一方で、バアルへの崇拝を強いられていた北イスラエル王国の民は、実際のところ、偶像礼拝をするべきか迷いのなかにあったようです。「どっちつかずに迷っている(21節)」とエリヤが民の信仰を問い直します。迷いのなかにあった北イスラエル王国の民は、決してアハブ王に全幅の信頼を寄せていなかったようです。それもそのはず、このアハブ王は飢饉がおきても民より家畜を心配する王でした。「馬やらばを生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない(5節)」


このような王の支配の下にある民を救うため、主はある人を起こされます。偶像崇拝に走る王が支配する国にありながら、主を畏れ敬う人オバドヤ。彼は信仰を守りながら宮廷長を務めていました。 


エリヤとのやり取りから、彼がアハブ王に殺されることを恐れていたことがわかります。「わたしがアハブに知らせに行っても、あなたが見つからなければ、わたしは殺されます(12節)」オバドヤが報復を恐れる姿は、迫害にありながらも、信仰を捨てない強かさの側面でもあります。主の信仰に殉ずることは、決して一時の捨身のみが証するものではありません。迫害のさなかにあっても、恐れと共に生きながら信仰を守り続けることは、忍耐を要するものです。キリストの信仰が日本に広まった頃、疑いの目を向けられながらも、多くの信徒が忍耐を続けました。昨今、潜伏キリシタンの信仰が見直されています。恐れながらも「僕は幼い頃から、主を畏れ敬っております(12節)」と告白するところに、主の御業が現れていきます。


2.己の意を神に押し付けるバアルの預言者たち


このように恐れるオバドヤに、エリヤはついに主の栄光が現れる時が到来したことを告げます。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現します(15節)」これまで身を隠していたエリヤでしたが、北イスラエル王国の民を救う時が満ちました。アハブに対して確信をもって語り、偶像崇拝の預言者たちとの対決を宣言します。


カルメル山での預言者どうしの戦いが始まりました。エリヤ一人に対して、四百五十人のバアルの預言者たち。しかしその姿は実に無残です。「朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った(26節)」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って、剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った(28節)」 


ここに神と信じる存在を、意のままに操ろうと試みてきた偶像崇拝者たちの欺瞞がよく言い表されています。祈って、跳び回り、体を傷つけて神秘的な利益を引き出そうとしている姿は、謙遜でも、敬虔でもありません。神と崇めながらも実は意のままに操って、その分け前を自らのものとする欺瞞と狂気に満ちています。察するに、北イスラエル王国の民を前に、これまでも飢饉のたびに雨乞いの儀式をささげてきたのでしょう。時には図に当たって、目論見通り雨が降ったこともあったかもしれません。しかしその「信心の成果」はアハブ王の権威に濫用され、預言者たちは王や后と食卓を共にして(19節)栄華を喜び楽しんでいました。主なる神様は、これらの欺瞞を打ち砕く時のために、そのままにされていたのだと言えます。


3.「わたしの近くに」御言葉は招き、民を生み出す


バアルの預言者たちの為す術が出し尽くされたところで、エリヤは語り始めます。「わたしの近くに来なさい(30節)」と御言葉の前に招き出します。主イエス・キリストも山上の説教において、あるいは弟子たちに大切なことを語られるとき、近くに招き寄せました。<招き寄せる:エクカレオー>された民がかくして<エクレシア:教会>となっていきます。また<傍に招く:パラカレオー>との言葉との関連も見いだせます。これが名詞となった<慰め主:パラクレートス>が群れを一つに建て上げます。


祭壇の周りに民を招いたエリヤは、確信をもって一つ一つ丁寧にことを進めます。祭壇の周りで命じられる事柄の一つ一つは、一見、なんのためのものだろうかと思わせたかもしれません。主の御言葉を携えるエリヤが命じるところに信頼して、一つ一つの小さなことに仕える民の姿は、主の御業への期待に満ちています。エクレシア(教会)がパラクレートス(慰め主)に導かれて、礼拝の備えをしているようにも見受けられます。時が満ちて、預言者エリヤは礼拝を始めます。「アブラハム、イサク、イスラエル(ヤコブの又の名)の神、主よ」主の名を呼びつつ「あなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように・・・そうすれば民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう(37節)」


民を顧みない偶像崇拝の王の支配、私利私欲のために神を語る偽預言者が踊り回る時代にあって、主の御言葉は、惑いのなかにある民を救うために語られたのです。一つ一つの小さな業を積み重ねる民の献げ物は、主の熱情の炎によって受け取られたのでした。これを目の当たりにした民は、いまや惑いを取り去られ、心からの信仰を告白する民とされていきます。「主こそ神です、主こそ神です(39節)」主はこの時のために、あらゆる出来事を御手のうちに進めておられたのでした。


主の御言葉は、逆境のなかに置かれても語り継がれていきます。語る預言者がその時代に起こされ、主が励ましてくださるからです。パウロがコリント伝道に遣わされた時、そこはこの世の知恵と知識への称賛、偶像崇拝に安易な安らぎを求める巨大都市でした。そこで主はパウロに告げました。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ(使徒18:10)」


エリヤの苦境、オバドヤの忍耐、民の試練と戸惑いも、「主こそ神です、主こそ神です」の信仰告白に至るための道備えでした。「わたしの近くに来なさい」と招いてくださる主ご自身が礼拝を導き、[エクレシア:教会]を建て上げます。そして、このお方の語る御言葉こそが、祈り、礼拝する民を造り上げてくださるのです。この希望に信頼し御言葉を語り継ぐところに、礼拝し、祈る民は生まれていきます。

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