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5月1日祈祷会:列王記上第16章

 

列王記は、歴代の王たちの信仰を記しながら、そこに貫かれるダビデ契約への主の真実を現します。それゆえ、統一王朝が南北に分裂したのち、それぞれの王朝は「王位の継承」という点で著しく異なります。南ユダ王国では、善悪さまざまな王が登場しながらも、ダビデ家の子孫に王位は継がれていきます。一方、北イスラエル王国は、始祖ヤロブアムの子が謀反で滅ぼされたのをはじめ、謀反と簒奪を繰り返し、同一家系による支配は続きません。「ヤロブアムと同じ道(2)など、ヤロブアムの名のゆえに主がお怒りになる姿が続きます。聖所を勝手に築き、黄金の子牛を拝ませたヤロブアムの罪は、北イスラエル王国への継続的な裁きを招くことになります。

1.主の選びと応答によって得られる喜び

 南ユダ王国がアサ王の治世のもと、41年間も安定したことに比べ、北イスラエル王国では4人も王が代わります。しかも代替わりには常に流血が起きています。異なる聖所で礼拝し、偶像を拝み、王たちは相争うなかで、北イスラエル王国の国民たちの深い戸惑いと不安が伺えます。為政者が恣に政を行うことがどれほど民を悲しませるか、北イスラエル王国の歴史からも十分に知ることができます。

 

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 そうではありながら、ここで一つの問いを出すことができると思います。なぜ主は、正しく完璧な王を選ばれなかったのでしょうか。

 「わたしはあなたを塵の中から引き上げて(2節)、これは先見者(ラーアー:預言者の古い呼称)イエフを通してバシャ王に語られた主の言葉です。ヤロブアムの時と同様、バシャ王も主の御言葉によって選ばれ、召命が告げられました。ここにも、北イスラエル王国の王として、主ご自身が選んだことが明記されます。つまり「主の目に悪とされる(7節)ことを行う王も、主御自身が選んだ人なのです。

 この「なぜ主は不完全な者を王として立てるのか」という問いについて、ここでは二つの受け取り方を見出しておきたいと思います。 一つは「主の選びと人の応答」です。主なる神は当然、北イスラエル王国が荒れ果てたままで良いとは思っておられなかったはずです。偶像崇拝を重ねるヤロブアムの罪をお怒りになり、革める指導者としてバシャを立てました。民が主の方へ向き直るように導くためです。ここには主の選びと御心の委託があります。王という特別な務めに選んだ以上、バシャにはその務めを十分に果たすための応答が求められたわけです。バシャには、王位と権力という、国を革めるために必要な賜物も与えられていたはずでした。しかしそれに気づかず、応答することができなかったわけです。そこには、主が与えたもう恵みと務めに対し、人は自由と責任のもとに応答する、選びと応答の関係を見出すことができます。主は、けっして人間を自動人形のように操って、御心を行うお方ではないのです。自由と責任のもとに、応答する生き方も示してくださいます。そこに、御心に生かされている喜びも、与えてくださるのです。

2.王の限界は、被造物が王ではない真実を示す

 次に、主は王の背信を用いて、人間の支配の限界を示されているという受け取り方です。これは、バシャの後に続く王たちの姿にも言えることです。バシャの子エラにはジムリが襲いかかり、バシャ家を滅ぼします(1013)。しかしジムリの王位は「七日(15)。司令官オムリが追い詰め、ジムリは「王宮に火を放って死んだ(17)と壮絶な最後です。さらにオムリの敵討ちは、もう一人の実力者ティブニにつく民との間に、民を二分することになります。天下分け目の戦いは、オムリに軍配が挙がりました。しかしながらこのオムリも偶像礼拝の罪を繰り返します(26)。繰り広げられる権力争いと偶像崇拝、そして分裂と同士討ちの憂き目にあう民。王の務めはまったく地に堕ちています。

 民が王を求めた時に、すでに主なる神様は、王の限界を予告しておられました。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである(サム上8:10)と前置きされ、語られるのは息子たちを徴兵し、娘たちを労働に徴用する王。王の権能は民を奴隷のように働かせると告げます。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ(17,18)野心から王になった者たちにより、北イスラエル王国の背信の拍車には加速がかかります。選ばれていない王が人を支配し偶像崇拝を強いていきます。王の代が新しく代わろうとも、人が作り上げた存在に崇敬を強いる国は、神と人、人と人との破れを革めることはできません。主はこの厳しい時代も用いつつ、王の支配の限界を示します。

3.サマリアも、キリストの王権を示すために

 北イスラエル王国の背信が深まっていくなかで、今日の最後のところには、わたしたちにも馴染みの深い地名サマリアが語られていました。24節は、サマリアという地名の原因譚となっています。

ご承知のとおり、新約聖書ではユダヤ人とサマリア人が対立しています。それは、これからも続く北イスラエル王国の背信や、その後に起こるアッシリア帝国の国策による、異民族との混血、聖所が置かれるゲリジム山での独自の礼拝に起因します。ユダヤ人にとってサマリア人とは、先祖が同じでありながら、主の教えから離れていった、赦すことのできない存在でした。

 しかし主はサマリアという地名が存在することを良しとされました。それだけでなく、その地に住む人達がユダヤの人たちと険悪になることも、御心でした。サマリアという地が救いに用いられていくのです。北イスラエル王国の王たちの背信の姿が、真の王とは誰かを示すために用いられている主の計らいを、ここに見出したいと思います。

嫌われていたはずのサマリア人にも、義人がいたことをイエス様は語ります。偽善者が避けて通る怪我人を、身を挺して助けるサマリア人。その姿を通して、命を挺して隣人となってくださる主を示されます(ルカ10)。またサマリアに赴かれ、霊と真を尽くしてささげる礼拝を、サマリアの女性に説かれます。この女性は、街に戻ってさっそくキリストを伝えはじめました(ヨハネ4)。さらに主の弟子たちも聖霊に導かれてサマリアに赴き、主の言葉を力強く証しして、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせます(使徒8)

 人が選んだ王たちがどれほど代を重ねようとも、主はお一人の姿を通してのみ王を示されます。和解のために命を捨てて仕えてくださったお方、王なるイエス・キリスト。この恵みに選ばれ、命を保たれていることを知るとき、永遠なる神の招きに応答する喜びも、常に革められることでしょう。

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