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5月22日祈祷会:列王記上第19章

 

450人のバアルの預言者を相手取り、主なる神への確信のもとに礼拝を導いたエリヤの姿は、孤軍奮闘のように受け止められることもあります。ある書物はこれを「エリヤとバアルの預言者の対決」と銘打っていました。誤りではないかもしれませんが、「主よ、わたしに答えてください。そうすれば民は主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう(王上18:37)とのエリヤの祈りにあるように、民を立ち返らせたのは主御自身です。

1.権力者が正当化のために用いる宗教

 その一部始終を目の当たりにしたアハブ王は、にわかにエリヤへの殺意を退けました。彼にとっては家畜を害する飢饉への対処が喫緊の課題でした。大地に恵みの雨が激しく降った(45)ことにより、バアルの預言者たちの祈願が無為に終わっても、さほど執着を示すことはありません。

 しかし、主の預言者たちを剣で皆殺しにした后イゼベルは、アハブの無頓着とは異なります。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように(2)「あの預言者たち」が、皆殺しにした主の預言者たちを指すのか、エリヤが殺したバアルの預言者たちを指すのか、ここだけでは判然としません。しかし、いずれにしてもイゼベルがエリヤに殺害予告を突きつけたことは間違いありません。

 「あの預言者たち」が、バアルの預言者たちのことを指していると考えられるところがあります。前章には「イゼベルの食卓につく450人のバアルの預言者(王上18:19)と記されていました。イゼベルは私的にこの預言者たちと交わり、宗教的パトロンとして飼いならしていたようです。

 450人の預言者たちを殺害されたイゼベルの憎しみはエリヤへの殺意に向けられていきました。これを、単純に親しい者を殺害されたものへの敵討ちのようには読み取って済ませることはできません。イゼベルは権力者であり、バアルの神々を民にも拝ませることで権力の正当性を保っていました。宗教によって正当性を得られることを権力者たちは喜びます。その点、このたびのことはバアルの預言者たちの「信心」や「神秘性」が一切、剥ぎ取られる不祥事でした。イゼベルにとって、エリヤを殺害しないことには、権力の正当性を証明できない状況に陥ったのです。雨が降ったことで追及の手を緩めたアハブよりも、イゼベルのほうが権力に対する貪欲さが深いとも言えます。

権力者は正当性を主張するために、宗教者を利用することすら行います。18世紀の北米では、聖書の御言葉から「神学的」に黒人奴隷制度を正当化できる聖句を掲げ、この制度を支持した人たちがいました。しかし19世紀に入ると、奴隷制度を疑問視する神学者たちがその欺瞞を剥ぎ取っていき、公民権運動の下地を整えていくことになります。北米ミッションからの宣教の影響を受けているわたしたちの教会は、神学も権力の正当化に誤用される危険があることを忘れることはできません。

2.心も肉も、養う唯一のものは主の御言葉

イゼベルの殺害予告は、エリヤを十分に恐れさせました。直ちに逃げる彼の姿は、カルメル山での勇ましい姿からは一変し、死を望むほどに疲弊します。この姿から「主に信頼するもの、諦めてよいのか」と批判することになるのかもしれません。

しかしここに神の御言葉にまったく依存して召し出される人の姿が示されています。その人は主の御言葉があればこそ、生きる意味、使命を見出すことができたのです。そして御言葉の正義に命を委ねているからこそ、憎しみには弱いのです。自分の正当性ではなく、主の正義に頼っていればこそ「神の正しい言葉を語っているのに、なぜ憎まれなければならないのか」と深く傷つくのです。

主は、そのエリヤを「情けない奴」と侮ることは決してなさいません。「御使い(מַלְאָךְ֙:マルアーク)が彼に触れて(5,7節)」。「御使い、言葉を運ぶ者」という意味です。御言葉が運ばれて、疲れ果てた仕え人に触れるのです。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ(7節)」一人で歩むには耐え難い召し出された道だからこそ、主の御言葉が疲れ果てた時に触れてくださいます。イエス・キリストは40日の荒野の試練において「石塊をパンに変えてみよ」との誘惑に「人はパンのみに生きるのではなく、主の御言葉によって生きる」と、わたしたちのために答えてくださいました。

3.召命は新しい命を与え、立ち上がらせる

40日40夜のあと、たどり着いたのはシナイとも呼ばれるホレブ山。主はエリヤに問われます。「エリヤよ、ここで何をしているのか(9節)」主御自身が導かれた逃避行でが、敢えて問われます。主はエリヤに自分自身を語らせ、召命を問われます。「わたしの万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはわたしの命をも奪おうとねらっています(10節)」耐え難い苦境にあることを、主はエリヤの口から語らせることで、自分が主に召し出され、どのように仕え、その結果、これほど苦しいということを訴えさせています。「すべて主に従ったからこそ、今のわたしの有様」だと認めさせています。

その上で、主は激しい風、地震、火をお越し、ご自分の全能の御力を示されます。イゼベルの以上に力を持っているのがわたしであると。そして、それらの力にまして、主がおられるのは静かにささやく声でした。エリヤは引き篭もっていた洞穴から、静かにささやく声を聞いて再び召し出されます。「ここで何をしているのか」との再度の問いかけにエリヤの答えは一語一句違いません。一度目も二度目も、同じ言葉を以て誠心誠意、主の問いかけに答えます。それを嘉せられ主は新しい務めを与えられます。

大きな働きを成し遂げた人であっても、主の御言葉によって立つ人は、信頼のゆえに弱くなることもあります。これはキング牧師が脅迫電話を受けた朝、食卓に突っ伏して祈った言葉です。「主よ、私はここで正しいことをしようとしています。私はここで正しいと信じることのために立ち上がっているのです。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は弱いのです。私は倒れそうなのです。勇気を失いそうです。そして恐れています。だが私は人々にこんな私を見せたくありません。なぜならもし彼らが私の弱い、勇気を失っている姿を見るなら、彼らも弱くなってしまいます。人々は私に指導力を期待しています。だからもし私が力と勇気を失ったままで彼らの前に立つなら、彼らも倒れてしまいます。私は力の限界に来ています。もう何も残っていません。もう一人で立ち向かうことはできません」この“コーヒーカップの祈り”を捧げた後、不思議と恐れることはなかったとキング牧師は振り返ります。

主は、偉大なる力をお持ちでありながら、御言葉に頼り切っている人を見放しません。疲れ果てている人に御力を示しながらも、静かな御声をもって、新しい命を与えてくださるのです。

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