« 2019年5月26日主日礼拝説教 | トップページ | 2019年6月2日主日礼拝説教 »

5月29日祈祷会:列王記上第21章

 

南北にイスラエル統一王朝が分裂した時代、南面にはエジプト、北面にはアラム、そして後に北イスラエル王国に攻め込むアッシリアが控えていました。北イスラエル王国はアラムと国境を接し、度々戦端を開きます。第20章では、アハブ王がアラムの王ベン・ハダドの大軍を打ち負かす様子が記されていました。主が預言者を通してイスラエルを励まし、異教の民を屈服させる流れは、他の箇所と主題が重複しますので割愛しました。アラムとの戦争の後にあたる第21章では、ナボトという人が無実の罪を着せられ、所有していた土地をアハブの王家に奪われるという暴虐の仕打ちが記されています。

1.アハブとイゼベルの強欲は罪の源をなぞる

 イズレエル(「神(エル)が種を蒔いた(ザーラー)土地」の意)は南北イスラエルの中心的穀倉地帯で、たびたび他国に狙われる肥沃の土地でした。ナボトのぶどう畑もさぞや良い実を実らせていたと思います。そこをアハブに目を付けられてしまいました。

 アハブは売却を断られ「寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった(4節)と、まるで不貞腐れるような王らしからぬ幼稚な態度を示します。「欲しいものを手に入れられないことに怒る」子供であれば叱られて終わりですが、これが王となると深刻な問題となってきます。アラムとの戦さ勝ったこともあり、驕り高ぶって人の所有に飽くなき貪欲を隠さない為政者の姿です。さらに、アハブ以上に悪を行うことに躊躇わないイゼベルが加担し、無実の罪でナボトは殺害され、アハブはぶどう園を奪い取ったのでした。

 アハブ一人であれば、このたびのナボト殺害の事件は生じなかったかもしれません。しかしイゼベルの唆しがあり「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません(3節)と宣言したナボトが殺害されます。しかも実際にナボトの殺害に手を染めたのは長老と貴族たちでした。権威を振りかざす王、唆す王妃、権威に従う地位のある人々の手を介して、罪は多くの人を巻き込み、酷さを増していきます。

 些細な欲が人を罪へと唆し、権力をふりかざして無関係の人に罪を犯させる姿は、旧約の要所をなぞるかのようです。「アハブにように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである(25)

創世記によれば、楽園のアダムとエバは、蛇からの唆しに身を委ね、木の実を口にしたいとの欲望に抗うことができませんでした。楽園を追われる人々の姿は「手に入れて自分のものにしたい」との些細で幼稚な所有の欲が、人を神との交わりから遠ざける始まりとなることを教えてくれます。

 また自分では手をくださず巧妙に人に罪を負わせるイゼベルの奸計は、ダビデの罪を思わせます。バト・シェバを手に入れるために、ダビデはヨアブに彼女の夫ウリヤを殺させました。これも人の妻を手に入られたいとの欲による罪でした。

 所有欲、唆し、無関係の人を巻き込むなど、アハブとイゼベルが犯した罪は、旧約聖書が伝える罪の根本をなぞります。神の御言葉にたえず耳を傾け、先祖たちの姿から学びながら、悔い改めと赦しに留まっていたならば起こるはずのない出来事でした。躊躇いもなく己の欲するところに身を委ねる姿は、偶像の神々を礼拝し、己の満足に酔いしれていたからこそと言えます。

2.エリヤの裁きの言葉に恐れ、砕かれるアハブ

「人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにする(19)明白な罪のもとに預言者が遣わされます。アハブ王のもとに、エリヤが姿を現しました。アハブが語る「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか(20)との言葉は、主の御言葉の前から身を隠していたアハブ自身の心理を表しているかのようです。アダムとエバも楽園で身を隠しましたが、主は「どこにいるのか」と探されました。本性がもっとも露出しているところに、主の御言葉は見つけにくるのです。「イゼベルは犬の群れの餌食に、アハブに属する者は犬に、鳥の餌食に(24)との裁きの言葉が語られました。

この言葉に「衣を裂き、粗布を身にまって断食し、打ちひしがれて歩く(27)アハブ王。「衣を裂く」は最大の悲しみを表し、粗布によって身を低く落とし、悔い改めの断食を行います。この姿に、主は御言葉の実りを認め、思いを翻されました。聖書の一貫する使信、罪からの立ち返りを求めておられる主の御心が示されます。

原初の罪は楽園追放を招きました。しかし神との交わりを壊してしまった人の罪に、絶えず御言葉は遣わされ、立ち返る魂を探し続けます。「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか(20)、罪の姿の露見を恐れるがあまり御言葉に敵対するアハブですが、立ち返った姿によって「探しておられる主は見つけてくださり、立ち返りへと導く」という出来事の価値の高さが示されています。

3.義人の遺棄を照らし出す新約の光

アハブは災いを避けることを赦されました。しかし殺害されたままのナボトの姿は哀れです。彼は先祖から引き継いだ嗣業の土地、主の恵みを約束された土地を手放すことを拒みました。王の権威よりも主の恵みを重んじたのです。権威に屈せず恵みに留まる姿は、信仰者として立派な模範です。しかし問いが残ります。「なぜ、これほどの信仰者が無実の殺害に屠られてしまうのか」義人の苦しみという主題に目を向ければ、ヨブ記にもつながる問いかけです。

旧約聖書のみでこれを読むとすれば、ナボトの死については沈黙していることしか読み取ることができません。義人がまるで遺棄されたかのように思える出来事に「果たして主の恵みに留まる人を神は守ってくださるのだろうか?」ナボトの死に、恵みに留まるための堅忍が揺さぶられます。 

ナボト自身の思惑は明かされなくとも、ナボトが流した血がアハブの回心のために、尊い働きを捧げていることは偽らざる事実です。新約の光を当てるとすれば、まるで遺棄されたとしか思えない絶望の際に、義人が降りてきてくださったからこそ、そこにおいても愛を示してくださる神の救いの栄光が輝きを放ちはじめます。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」遺棄された正しい人の絶望の叫びです。信仰に留まりたいと願うとき、あらゆる堅忍が揺さぶられる状況において、イエス・キリストの叫びはそこに響きます。楽園を追放された地に追いやられ、遺棄されたかのように思えたところに、共に叫んでくださる御言葉が見つけに来てくださいました。十字架のうえにすら、楽園が近づいたことをイエス・キリストは宣言してくださいました。その姿こそが、主なる神がどれほど立ち返りを求めて愛しておられるか、伝えてくださいます。胸をうちながら帰っていく人々もまた、楽園に戻るための招きを受けた人々だったのです。

« 2019年5月26日主日礼拝説教 | トップページ | 2019年6月2日主日礼拝説教 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ