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6月26日祈祷会:列王記下第3章

 

.偶像はそのまま、「主の目に悪とされる」ヨラム

列王記下は、アハブの死とモアブの反乱から書き始められていました(列王記下1:1)。本章で語られるモアブの反乱は、そのときのことを改めて詳しく記したものです。このときアハズヤの弟とみられるヨラムが王となっていました。

ヨラムの評価は、彼は主の目に悪とされることを行ったが、ただ彼の父や母ほどではなかった。父が作ったバアルの石柱を彼は取り除いた。しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を自分も犯し続け、それを離れなかった。(2,3) と、賛否は相半ばのようです。「バアルの石柱を取り除いたこと」については、父アハブと兄アハズヤの末路が関わっていると思われます。バアル神へ傾倒した二人ですが、アハブはアラムとの戦いで戦死し(王上第22)、アハズヤはバアル・ゼブブへの祈願も虚しく、病に斃れました(王下第1)。土着神に対する崇敬の念を無くしバアルの石柱を取り除くヨラム。しかし単に「取り除いた」だけに過ぎません。かつて南王国にアサという宗教改革を行った王がいましたが、彼は偶像を取り除くだけでなく徹底的に偶像を破壊しました(王上第15)。また預言書には主なる神ご自身が、偶像を壊す姿を示すところもあります(ミカ書第5)「主の目には悪とされる(2節)」、この言葉が示すように、ヨラム自身には自分の偶像崇拝に対する対処の仕方が、主なる神にどのように見られているかという意識は見受けられません。父、兄が恩恵を被ることのなかった偶像を取り除き、金の子牛礼拝に戻っていくばかりのヨラムの自己中心的で徹底性を欠く悔い改めの姿は、この後の言動にも現れていきます。

2.困難に陥った時だけ、主の名を唱える虚しさ

属国モアブの反乱に対して、ヨラムは成敗する軍を起こします。ここで再び、南王国のヨシャファト王が登場します。彼はヨラムの父アハブからの協力要請のもと、アラムを相手に戦った南王国の王でした(王上第22章)。「わたしも攻め上ります。わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」と答え(7節)、そのときと同じ言葉でヨラムからの要請を受け入れる姿からは、やはり南北イスラエルの一日も早い統合を願う思いが伝わります。

エドムを経由しながら、その軍も仲間に加え、三国の同盟軍は死海を南に迂回してエドムからモアブに北上するルートを取ります。この迂回に要する七日間を考慮に入れていなかったのか、水不足に悩まされることとなったヨラムは「ああ、主はこの三人の王をモアブの手に渡すために呼び集められたのか」(10節)と嘆きます。しかしヤロブアムと同じく金の子牛を拝み、「エドムの荒れ野の道を(8節)」選んだのはヨラム自身です。主の御心を訊ねながら決断したわけではないのに、自らの失敗を天の試練のように語るヨラム。主の名を唱えながら、結局は自分の都合を中心にして、物事の推移を捉える姿が伺えます。

これに反し、ここでも南ユダのヨシャファト王は以前と同様に、主の言葉を求める人でした。「ここには我々が主の御旨を尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(11節)と、冷静に御言葉を求めます。エリシャの存在を知ると「彼には主の言葉があります」と、二人の王をともなってエリシャのもとに赴きます。実に対照的な南北の二人の王の姿です。

三人の王たちの来訪を受けるエリシャですが、ヨラムに対する言葉は辛辣そのものでした。わたしはあなたとどんなかかわりがあるのですか。あなたの父の預言者たちや母の預言者たちのもとに行きなさい(13節)。これに対するヨラムの返答は、虚しい言葉を繰り返します。いいえ、モアブの手に渡そうとしてこの三人の王を呼び集められたのは主だからです。

ヤロブアムの罪を犯し、主なる神を信じていないことは明白であるにも関わらず、主の名をみだりに唱えるヨラムの姿に、エリシャは厳しい態度を取り続けます。わたしの仕えている万軍の主は生きておられる。わたしは、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、あなたには目もくれず、まして会いもしなかった。真摯にみ言葉を求めるヨシャファトに応えるようにして、16節以降はモアブに対する戦勝と制圧が預言されています。結果としては25節にあるように、モアブへの勝利は三人の王の手に渡されることとなりました。

3.「主の目には小さいこと」を満たす救いの御業

戦勝ののちも、さらに攻め寄せる同盟軍に対して、モアブの王は首都キル・ハレセトで頑強に抵抗します。最後には戦勝祈願のために自分の長男をいけにえにするという凄惨な結末が語られていました。27節の「イスラエルに対して激しい怒りが起こり」は、王子をいけにえにささげたことで巻き起こったモアブ兵の敵愾心と理解する向きもあります。一方で、王子を犠牲に人身御供を行うモアブに対して、イスラエル兵の心の中に恐怖心が生じ、戦意を失ったとも理解できるようです。原文の「怒り」が誰のものかが不明なため難解なところです。ただし、子牛礼拝を続けるヨラムの罪を踏まえると、偶像崇拝の影響が根強く残っていたことで、凄惨ないけにえを目撃した兵卒が戦意を喪失したと考えるほうが、より主題に沿った理解ではないかと思います。結果的には、モアブの国土を制圧した以上、ヨラムの願いは果たされたこととなります。しかし戦果を求めて深追いし、虚しく引き揚げるイスラエルの姿には、主の御業への応答の言葉も、賛美もありません。御言葉との対話に欠ける虚しさが漂います。

モアブとの戦いに先立ち、エリシャの預言はこのように語っていました。「これは主の目には小さいことである。主はモアブをあなたたちの手にお渡しになる」(18節)進退窮まった王たちに命じたことは、ただ涸れ谷に堀を造らせることでした。人が為し得る業を命じたに過ぎません。しかし、その堀を水で満たし、モアブ兵の目に水面を赤く写し、勝利を与えたのは主の御業です。自分の行いが主の目にどのように写っているか意にもかけないヨラムは、人の行いを満たして余りある神の御業を見過ごすことになったのです。

主の御言葉に従って、人が為し得る行いを捧げたところに、主の御業が満たされていくことを御言葉は告げています。カナの婚礼で主は最初のしるしを行われました(ヨハネ2章)。水瓶に水を満たす召使いの仕事は、目に見える人の業です。しかし主の言葉に従ったところに、良いぶどう酒が与えられました。ヨラムのように人の業を求めるばかりの眼差しには、主の御業は隠されたままです。

福音は、愛する人の立ち返りを心より望む主ご自身が、罪と死への戦勝を祈願し、御子をささげたことを告げています。主のご栄光が現れていく様子を知らされたのは、粛々と言われた通りに瓶を満たした召使いたちだけでした。注がれたところに御子の命の血潮が流された真実が現れます。

 

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