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2019年6月2日主日礼拝説教

 

聖書 使徒言行録第1章1-11節

説教『待つ身の幸い』 伝道師 三輪恵愛

1.弟子たちが待つこととなった1つ目の時「イエスはまたおいでになる」

 親しく一緒に過ごしてくださったイエス様を天に見送る弟子たちに、天使たちが慰めの言葉を語ります。「天にあげられたイエスはまたおいでになる(11)別離の辛さは、親愛の深さの証しでもあります。再会の日が約束されているならば、それを希望に待つこともできましょう。イエス様が再び来られる日、それは世の完成であり終わりの日でもあります。弟子たちは、イエス様を待つ身となりました。

2.イエス様が示す「知らされていること」と「知らされていないこと」

 ところが待つ身の辛さは、「その日がいつかわからない」時に感じられるものです。弟子たちは「この時(クロノス)ですか?」と問いますがイエス様は「あなたがたの知るところではない」とお答えになります。時刻表やカレンダーに囲まれるわたしたちは、予定が知らされていないことにしばしば苛立ちすら感じます。しかしイエス様が再び来られる時、再臨の時はすべての終わりの時です。また再臨を前にして、わたしたちには個々に終わりの時があることも定められています。神様が定める絶対的な時(カイロス)は誰にも明かされていません。「必ず終わりの時はあるが、いつかは知らされていない」しかし待つ身にとってそれは決して辛いことではありません。知らされていることと、知らされていないことが解っていればこそ、かけがえのない今の時を、希望をもって生きることができるのです。

3.待つ身が幸いであるように、約束の聖霊が贈られる2つ目の時

「あなたがたに聖霊が降る」イエス様は2つ目の「待つべきもの」を約束されました。次週のペンテコステは聖霊がキリストを信じる人に降った日を祝います。聖霊を受けた信仰者が集って歩みはじめたこの教会です。しかし「聖霊を本当に受けているだろうか」と心配になる時があります。その時こそ「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」一人に降ったのではなく、キリストを信じる一人ひとりすべてに降り、そこにキリストの力が源になって証をしていることに信頼してよいのです。共に祈り、御言葉に聴き、賛美をし、日々の行いをするなかに、キリストが力を発揮されるのです。待つ身が幸いであるようにと、知らされていない神の時を一人で待つのではなく、一緒に待つ人々も与えられています。

【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

 

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