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2019年6月9日ペンテコステ礼拝説教

 

聖書 ヨハネによる福音書第14章8-18節

説教『慰めの主はいつまでも』 伝道師 三輪恵愛

 

1.フィリポの問い「見えない神様をどう信じるのか」に応えるイエス様

 「神様を示してくだされば満足です」弟子のフィリポの問いは、じつは多くの人も抱くものではないでしょうか。「見えないからこそ神」とは知っていても、信じることが弱るとき、はっきり示されれば心強いものです。これに答えるイエス様「わたしが父の内におり、父がわたしの内にいることを信じなさい」創造主なる神の内に、人の姿をとられたイエス様がいることは理解ができそうです。しかしイエス様の内に父なる神がおられるとは?そんなことがあるのでしょうか。

2.言である神が「父の内にいる子」「子の内にいる父」の愛の交わりを示す

 「わたしが父の内にいる」とは、まずは存在の大きな創造主の内にいることを示していると理解できるでしょう。のみならず「父の内にいる」すなわち「とどまっている」在り方も示します。つまり「父の御心の内にとどまっている在り方としての神の子イエス様」。そうすると「父がわたしの内にいる」ことへの理解も深まります。ヨハネ福音書には「神は言である」との言葉がありました。父なる神の言がイエス様の内にあり、それゆえイエス様も父なる神の内にとどまる。そこには父と子が言を巡って、深い信頼関係を保っておられる様子が覗われます。この父と子の愛の交わりをまず信じ、そして神を知りなさいと言われるのです。

3.父と子の交わりに招いてくださる聖霊が、共に居て慰めてくださる

イエス様は「わたしの名によって何でも願いなさい。かなえてあげよう」と言ってくださいます。しかし「なんでも」と言われると、案外と小さな願いに囲まれて、本当の願いが隠れてしまっていることに気付かされます。そこで「父と子の交わりを信じなさい」と言われるイエス様が「わたしの名によって」願うことの大切さを示されます。なんでも願うことからはじめたとき、祈りの言葉は父と子の愛の交わりを示されながら、変わっていくことでしょう。永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この霊(弁護者)があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。いつまでも神の慰めを受け、祈るものとされていく奇跡。父と子の愛の交わりに招かれながら、魂の慰めを受ける大切な場所が与えられました。ペンテコステ、慰めの教会の誕生日を祝います

【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

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