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列王記下第2章(20190619)

 

「ヤハウェ(ヤー)は神(エリ)である」との名を持つエリヤの召天の出来事が記されていました。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ(12)と弟子のエリシャ(「神(エリ)は救い(ヤーシャー)」の意)が叫ぶなか、死を見ることなく天に挙げられていきます。

 彼が召された時代は、アハブと后イゼベル、息子アハズヤと、偶像礼拝を極める一族が北イスラエル王国を支配していた頃でした。それは為政者の背信の罪に民が苦しむ時代です。民の救いのために召されたエリヤの生涯は「火の戦車、火の馬」「戦車よ、騎兵よ」と言われるように霊的な戦いの連続でした。バアルの預言者たちとの戦い(王上18)や、アハズヤが遣わした50人隊長の追及(王下1)では、主の火が彼を守り御心を示されました。その戦いは困窮を忍耐することでもありました。ケリト川の畔で烏ややもめを通して日毎の糧を養われ(王上17)、イゼベルの追及にはホレブ山にまで逃げ、死を願うほどに苦しみます(王上19)。しかしエリヤを絶えず恵みをもって養い、務めに遣わたのは、神ご自身のみ言葉でした。

1.霊的な戦いを担う後継者のために

本章は、御言葉によって霊的な戦いを担うエリヤの後継者が各地で起こされていることを知らせるところから始まります。エリヤと弟子のエリシャが共に最後の時を過ごしていましたが、その道中は、三つの場所、ベテル、エリコ、ヨルダンを巡るなかで三つの同様のことが起きていました。エリヤが「あなたはここにとどまっていなさい(2,4,6)とエリシャを留め()、次にエリシャが「離れません」と決意を革めます(2)。そして、預言者の仲間たちがこの二人を出迎えて見守ります(3)。違う場所で、同じようなことが三度、繰り返されるところが心に残ります。

 さて、三つの場所でそれぞれ彼らを出迎えている「預言者の仲間たち」は、「仲間たち」と訳されていますが、息子を表す“ベン”の複数形で「息子たち」とも訳される言葉です。そのため「エリヤの後継者となる預言者を育てる群れ」と考えられています。エリシャも血縁ではないエリヤを「わが父よ、わが父よ」と叫んでいました。多義的な意味をもつヘブライ語の「父」は、教えのうえでも父のような存在への呼び掛けとして用いられます。したがって、エリヤを父のごとく慕い、その預言者の務めを受け継ぐ後継者たちの共同体「エリヤ神学校」が、ベテル、エリコ、ヨルダンなど各地でみ言葉に関る学びを深めていたと考えることができます。エリヤの霊的な戦いは、もはや孤独ではなく、後継者の育成として実を結びつつありました。

2.試されるなかで堅くされる召命の志

 ところでエリシャは、「エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ(列上19:16)との主の御言葉により、すでにエリヤの後継者として選ばれていました。「わたしはあなたを離れません」と三度も頑なにエリヤとの同行を願うエリシャの姿は、師匠を心から慕う後継者らしい姿のように思えます。しかし列王上19章から本章に至るまで、姿が記されていなかったエリシャが、エリヤとここまで密接な関係になっていることには、少し唐突な思いもします。そこには、エリシャ自身がエリヤの後継者として選ばれながらも、なお彼自身がその主の召命にたるものかどうか、本人が自覚するまでに時が必要であったことを示しています。

上巻19章でエリシャがエリヤに選ばれた時、彼はついていくことを受け入れますが、その前に用事を済ませるために、エリヤに猶予を願っていました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います(19:20)」。結局はエリヤに従うエリシャでしたが、エリヤに召された時は、まだ家族との情が召命よりも優先されていたことも伺えます。

ここで思い出されるのは、イエス様に「どこへでも従って参ります」と言った人たちの姿です(ルカ9:57-62)。ある人は「まず父を葬らせてください」また「まず家族にいとまごいに行かせてください」と頼みます。その姿に主は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。

召されても躊躇が残ることについて、エリシャには神への不信頼が強まる時代にあって、預言者として献身するには、準備の時が必要だったのでしょう。「預言者の仲間たち」とともに御言葉に親しむ時を過ごしたうえで、エリヤへ同行を願うほどの召命の自覚がようやく与えられたのです。

これは主の霊に救い出されると同時に、イエス・キリストのみ跡をたどる人生に召されるすべての信仰者にも、当てはまることではないでしょうか。主が信仰の継承者として召し出し、選ぶにおいては、常に主ご自身の選びが先行します。しかし召されて選び出された本人が、主の霊を片時も離れたくないと強く願うまでには、なお時が必要であることに気付かされます。そのため、洗礼志願、信仰告白、献身など、召される過程においては、御言葉に照らしながら「離れません」という思いの程度を問いながら自覚を促します。エリヤが三度「とどまりなさい」と語るのは、エリシャの召命を問う言葉でもあるのです。

3.教会の霊的遺産の受け継ぎと時代への継承

エリヤが最後の時を迎え、跡継ぎとなる召命を持ったエリシャ。さらに「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください(9)と、その務めに足りるものを求めています。イスラエルの慣習では「二つの分」は、長子の継承を意味していますから、エリシャは預言者の「仲間:息子たち」の長子、つまり指導者となることも、ここで願ったということになるでしょう。エリシャがこの責任重大な務めを担うにおいて、エリヤの霊的遺産を求める切実な願いが現れています。

主の救いの御業の務めにつくとき、それは受け継がれてきたものの授与でもあります。エリシャは決して自分が新しい始まりとなって、預言者の仲間たちの指導者になろうというのではありません。むしろ謙遜にも、主の御言葉に最後まで忠実であったエリヤの霊を引き継ぎ、それをもって霊的な戦いの責任を負うことを願っています。

エリヤの召天を見届けたエリシャは、約束のとおり霊を受け継ぐこととなりました(10)。受け継いだからこそ、エリヤが行ったように外套で水を打ち、ヨルダンを渡って戻ります。また15節以降は、エリヤに固執する仲間たちに、エリシャが探索を思いとどまらせていますが、これも指導者としての自覚の現れと受け止めることができるところです。かくして主の御心により、最善の方法で大切な務めが引き継がれていったのでした。

キリストの教会は、先人の霊の戦いを引き継ぐ営みを繰り返してきています。新しい理解を求めながらも、そこに至るためには、まず経緯を知り、思考の始点を固めることが不可欠となります。主の昇天を見届けた使徒たちから、使徒的信仰の伝統が始まり、教理が受け継がれてきました。先人の霊の二つの分を受け継ぐエリシャの姿から、わたしたちもまた先人の霊的遺産である教理を受け継いだ者であることを思います。エリヤを天に召した主が、後継者の務めを祝福し、導かれます。

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