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2019年6月12日(水)聖書:列王記下第1章

 

列王記の上巻は、南北イスラエルの連合軍が北方の大国アラムに大敗北を喫したところで結ばれていました。ソロモン以後、分裂してしまったイスラエルが「一体となる」絶好の機会でしたが、主の御言葉を求めないアハブ王の背信により、南北の分裂は解消されないまま、下巻へと続きます。背信を極めたアハブの子が、今回登場する北イスラエルの王アハズヤです。彼は二年間という短い治世のなかで、アハブに劣らずバアル神を拝みながら国を治める背信の王でした。

1.死を運ぶ存在を神に仕立て上げる錯誤

アラムに対する大敗北は、北イスラエルの弱体化を招きました。1節には属国であったモアブが反旗を翻しています。決して大きな国ではないモアブすら楯突く記事が挿入されているところに、北イスラエル王国の凋落が暗に示されています。

そのような国難の時期に王となったアハズヤですが、神に立ち返る姿を見せません。頑なな彼は、病を得ても偶像に頼ります。使者を遣わして「バアル・ゼブブ」なる神に、病の回復が与えられるか訊ねさせます。この「バアル・ゼブブ」は、後代にはベルゼバブとも呼ばれ、悪魔の代名詞とされてきました。ペリシテ北部の街エクロンの土着の偶像神で、蝿の姿によって表されます。一説には、風土病をもたらす蝿を恐れた土着民が、神に仕立て上げて加護を願うことから発生したと言われます。死をもたらす恐怖に神の地位を与え、手懐けようとする考え方は、偶像神の発祥に普遍的に共通するもののようにも思われます(例:太宰府の菅原道真、大垣荒尾の平将門神社など)。

このバアル・ゼブブに快癒を尋ねるアハズヤの問いかけの言葉は「この病気が治るかどうか尋ねよ」でした。原語には<ハーヤー:生きる>という動詞が用いられている為、直訳すると「わたしは病から生き返るか」という意味あいになります。アハズヤが「生きることを望んでいる」意思を強めるかどうかで、ニュアンスが異なってきます。

いずれにしても、病からの治癒により、再び生きることを望むところに王の希望があります。しかし、それを「死を運ぶ蝿の神」に尋ねるところに決定的な錯誤があります。自分が一体何に恐れ、何を望んでいるのかがアハズヤ王には理解出来ていないのです。命の与え主であり、今、生きておられる主なる神に背をむけ、死を運ぶ蝿を神として、生きることを望む錯誤です。恐れを捻じ曲げ、本質を隠す偶像崇拝の恐ろしさが垣間見えます。アハズヤ王はむしろ哀れな王なのかもしれません。父アハブの偶像崇拝の姿を見て育つなかで、命とはなにか、創造主とは誰か、真剣に問わずに生きてきたのでしょう。

バアル・ゼブブのもとに向かう使者たちは預言者エリヤに出会います。「あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ(4節)」アハズヤの錯誤を知らずに聞けば、無慈悲に思える裁きの言葉かもしれません。しかしそうではなく、アハズヤのほうが、むしろ命の主なる神のもとに生きることを拒んでいるのです。

2.命の主に救いを懇願する三人目の隊長

使者たちの復命を聴き、アハズヤは道中に出会ったその人をエリヤだと悟ります。バアル・ゼブブの時とは違い、使者ではなく五十人隊を差し向けます。丁重な問い合わせではなく、捕獲か殺害を意図しています。言葉を聞くのではなく、災の預言の口を断とうとするところ、エリヤの裁きの預言、あるいはミカヤの災いの預言を憎み、嫌っていた父アハブ王の態度を生き写しにしています。このような不遜な王に遣わされるのですから、隊長たちの言葉遣いも同じく不遜です。「神の人」と呼び掛けていながら「降りてきなさい(9節)」との命令。なめらかには訳されていますが、五十人隊の隊長の命令口調ですから、敢えて訳せば「神の人、降りてこいと王が仰せだ」と言ったところでしょうか。さらに二人目の隊長は「急いで降りてきなさい(11節)」と言葉を付け加え、命令の度合いを高めています。そこには神の人、ひいては神への恐れは一切ありません。そのため、この言葉を承けるようにして、エリヤは「わたしが神の人ならば」との言い方をします。「あなたがたは一切信じていないようだが、神の御前で『神の人』と呼びかけるとは、こういうことなのだ」と語り、天からの炎で神の姿が示されていきます。二人の隊長の言葉にも、アハズヤ王と同じように、自分が語っている言葉とそれが意味するところの錯誤が示されています。「神」と言いながらも、恐れも敬虔もそこにはありません。この錯誤がひいては命に背を向けてしまうことにつながります。

二度の災いを目の当たりにした三人目の隊長は、そこで懇願するのです。「命を助けてください。どうか、わたしの命を助けてください(13節)」この姿に、聖書が語ろうとしている使信が色濃く込められているように思われます。これは単純にエリヤの神通力への屈服ではなく、命の主なる神の臨在の認知と、畏れ、そして救いの懇願です。しかも自分の命だけではなく、共に生きる部下の命の執り成しもしています。主の姿の啓示を与えられ、命の主を認知し、その御方のみに救いを懇願する人が、起こされています。

3.死の恐怖ではなく命の源を見つめ続ける為に

主を恐れる人と共に降りていき、アハズヤに言葉を告げるエリヤです。3,4節ですでに使者たちに語った言葉と同じように聞こえる16節の言葉ですが、「それはイスラエルにその言葉を求めることのできる神はいないということか(16節)」と、ただ漠然と神の存在を示すだけではなく、言葉を求める神の存在が示されています。じつにこの点が、アハズヤが最後まで抱いていた、偶像崇拝がもたらす錯誤でした。

「生きたい」と願うとき、誰にそれを求めるべきでしょうか。三人目の隊長は「わたしの命と、あなたの僕であるこの五十人の命を助けてください」と、神の人に執り成しを願いました。「病から生き返るかどうか」を問うのであれば、命の与え主なる神にこそ、アハズヤは言葉を求めるべきだったのです。エリヤは厳しくも「あなたは必ず死ぬ」とアハズヤに語られますが、それはすでにアハズヤが、命の主ではなく、死を運ぶ恐怖を神のごとく思い、そこに屈服して言葉を求めたからこその当然の帰結ということもできます。

屋上の部屋の欄干から落ちることにアハズヤの落ち度はなく、そのような事故は起きるものです。また病を得て、その行く末に不安を抱くことがあります。恐怖のあまりに、命の源を見るのではなく、命の終わりに屈服してしまいそうなことがあります。しかし主なる神様はそのようなときこそ、執り成してくださるお方を示してくださって、その方の名によって、命の主に祈り願う道を示してくださいました。イエス様は「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください(ヨハネ17:11)」道であり、真理であり、命であるお方が神を示し、わたしたちを永遠の命と結びつけるために、執り成してくださいます。

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