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2019年7月10日祈祷会:列王記下第5章1-19節

 

北イスラエル王国が建国されて以来、アラムは北方の脅威でした。たびたび国境がおびやかされ、手痛い敗北を味わいます(2022)。主なる神を信仰する民にとっては、アラムは異教徒の国です。旧約聖書の基本的な使信に沿えば、主を信じていない異邦人に含められるはずです。

しかし本章では、アラムの将軍ナアマンが重い皮膚病を癒やされる救いがもたらされました。また彼が仕えるアラムの王はナアマンの苦しみを思い遣り、ナアマンの家来は預言者エリシャの言葉を聞くようにと諌めます。異邦人であるはずのアラム人たちが示す姿は、じつに信仰的に記されています。救いはユダヤ人のみに限らず、主を信じる人であれば誰でも信仰を与えられる、新約の兆しが現れているかのようです。

1.神も人も信じられない王の姿

重い皮膚病に苦しんでいたナアマンに、癒やされる希望をもたらしたのは、捕虜としてつれてきた一人の少女の言葉でした。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに(3)この言葉はすぐにアラム王の耳元に届きます。ナアマンの癒やしのため、敵対しているイスラエルの王に手紙をしたため、多額の贈り物すら手配します。ナアマンの周囲の人々が彼の苦しみが癒やされてほしいと、心より願っている様子が窺えます。

ナアマンを包む温かい人のつながりが伝わってくる一方で、手紙を受け取るイスラエルの王は、衣を裂いて憤ります。「この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ(7)この「言いがかり」と訳されている言葉は「争いを探す」という意味を含みます。イスラエルの王は、アラムがまたしても領土をおびやかす口実を作ろうとしていると早合点したのでしょう。事態をよく理解せずに「衣を裂く」行為に及び、神の御前に苦しみを訴えるあたり、長年のアラムとの交戦状態から、王の心は神と人への不信に占められているようです。王に向けられるエリシャの言葉「彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう(8)は、暗に「むしろイスラエルの王が、神の言葉がそばにあることを忘れている」と痛烈に指摘しているようにも聞こえます。一人の少女が捕らわれて異国へ渡ったにも関わらず、預言者が語る御言葉に信頼する姿とは対照的です。

2.御言葉より、見える業に頼る

王と同様、御言葉に信頼をおくことができず、怒って憤慨する人がもう一人いました。ナアマン自身です。預言者エリシャの家の入口まできたにもかかわらず、姿をみせずに言伝で「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります(10)これに対し、「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒やしてくれるものと思っていた(11)と、自分が手厚い癒やしの業に与れるものと期待していたことを隠しません。

ナアマンにすれば、長年苦しんできた病に見合うほどの偉大な業が与えられなければ、気持ちの釣り合いがとれなかったのかもしれません。「七度、川で水浴び」あまりにも簡単な条件が提示され、苦しみが深かっただけに軽く扱われた怒りが先立ってしまいます。

確かに救われるためには、それ相応の劇的な出来事が起こらなければ、満たされない思いが生じることがあるかもしれません。ある教派では、信仰を告白し洗礼を受けるとき、救われたことへの確信を「証し」として公に語ることを奨めるところがあります。回心の出来事が劇的であれば「それだけ主なる神が大いなる業をもって臨んでくださった証左になる」という受け止め方だと思います。

しかし神の救いは、人間の尺度で測れるものではありません。特に人生の大転換を経験したわけではなくとも、主は御言葉をもって定められた時に信じる心を与えてくださいます。むしろ人間の側に特別な出来事が無くとも、ただ信じる心が与えられるところに「まったく神の側からの恵み」と言えるものがあります。ナアマンの家来たちは、代償となる行いの度合いに関わらず、主の御言葉に信じた時に救いが実現することを知っていたかのようです。「あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか(13節)」ナアマンの体が「子供の体のようになった(14節)」ところ、ナアマンの救いのきっかけをもたらした少女の素朴な信仰を思い起こさせるようです。

3.信仰により、地上の生涯を「安心して行く」

御言葉に聞き、信じたところに救いがもたらされました。ナアマン一行は「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことがわかりました(15節)」と、アラム人であるにも関わらず、主を信じる群れが起こされています。この後エリシャは、生じた信仰の芽をさらに主なる神に結びつけることに徹底しています。贈り物を受け取らず「主なる神は生きておられる(16節)」と、ナアマンの癒やしと、与えられた信仰は、まったく神の御業であることを明確に覚えさせます。

ナアマンは、エリシャもまた神に仕える預言者であることを認識し、さらに誠実にも、告白と赦しと執り成しを願います。アラムに帰れば、将軍としての立場のあるナアマンは、再び異教の地で主君と主君の宗教に従わなければなりません。その苦境を正直に語りながら、救いと信仰を与えてくださった主に操を立てます。神々へのいけにえをささげないことは、彼に出来うる精一杯の献身だったのでしょう。また、王に付き添ってひれ伏さなければならないことすらも正直に告白し、赦しを乞うています。「安心して行きなさい(19節)」との祝福は「シャローム(主の平安)のなかを歩みなさい」という意味の言葉です。心に懸かる不安をすべて神の御前に語り尽くしたナアマンの行く手は、御言葉により、主の平安に満たされました。

ナアマンと同じく異邦人であるわたしたちも、時に不本意ながら間接的に他の宗教と接触しなければならない時があります。寺社仏閣に囲まれた土地は、公共のために集められた費用が神事、仏事に用いられてしまうことが起こります。地上の生涯を歩むわたしたちは、土の器であるがゆえに地上の事柄と関わりをもたざるを得ません。ナアマンに向けられた「安心して行きなさい」との言葉は、遣る方無いわたしどもの思いすらも聴きあげてくださる慰め主の祝福です。

ナアマンは救われた証として、らば二頭分の土(アダム)を持ち帰りました(17節)。新約における二つのアダムは、一人目のアダムと同じく肉の体の不自由を持ちながらも、二人目のアダム、イエス・キリストによってすでに天上に属していることです。「最初のアダムは命ある生き物となったと書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。/わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです(1コリ15:45、49)」地上に属する土の器でありながら、受肉した言、キリストにより命を与えられました。天に属するものとして「安心して行く」ことができるのです。

 

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