2019年7月28日主日礼拝説教
聖書 コロサイの信徒への手紙第2章6-15節
説教『命、赦されるならば』 伝道師 三輪恵愛
1.キリスト者としての「相応しい歩み」を励まされるとき、思うこと
新しいスタートを切る時。その歩みが相応しいものとなるように、願わずにはおれません。コロサイという街道筋の町に建てられた教会に宛てて、クリスチャンとして歩んできた信徒へ励ましの手紙が贈られています。「キリストに結ばれた歩み」「キリストに根を下ろし造り上げられ」「信仰をしっかり守る」手紙の聞き手は、キリスト者として相応しい歩みを思い巡らすでしょう。イエス様の生き方を模範として歩むことを再度、心に誓う人たちも多くいたかもしれません。それでは「相応しい歩み」の中身とは?人それぞれに任されたものなのでしょうか。
2.己の知恵を愛し、禁欲的に生きる歩みに潜むキリストとの分離
ここで「哲学:フィロ(愛する)・ソフィア(知恵を)」にまどわされないようにとの警告が語られます。当時コロサイの教会はユダヤ教のみならず、土着の宗教に囲まれていました。厳格な禁欲主義を唱え、己の知恵を高めて生活の清らかさを求める生き方を主張します。教会にも、この厳格な禁欲主義の影響が迫ってきました。「キリストに倣って、倫理的、道徳的に優れた生き方をするのは善いことでは?」確かに、信仰は生き方を善いものにします。一方、生き方の実践の可否によって自らを、あるいは他者のあり方を判断することも起きてしまいます。「言い伝えにすぎない哲学」は、キリストと共に新しい生き方を始めたことを忘れさせていました。
3.洗礼により、キリストと共に死に、キリストと共に復活させたもう神の赦し
そこで手紙は思い切ったことを伝えます。「あなたは洗礼によってキリストと共に死に、神はキリストと共に復活させた(12節より)」!なんと洗礼によって、すでに「死んだ」というのです。十字架と洗礼を同一視するかのような文言ですが、イエス様も御自分の十字架を洗礼と言い表しておられました(ルカ12:50、マルコ10:38参照)。もう一度、6,7節の励ましに戻れば「キリストに結ばれ」「教えをしっかり」が示すものとは、すでに罪に苛まれていた古い在り方はキリストと共に十字架に懸かり、すべて赦され、キリストと共に復活の命を生きているという真実です。キリストと共に死に、共に復活した人は「自分の正しさ」で生きる必要はもうありません!神に赦された命に、主キリストが満ち溢れているのですから
【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】
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