2019年7月3日祈祷会:列王記下第4章8-37節
聖書は、男女の結びつきだけではなく、神の御言葉によって新しい命が創造されることを伝えます。女性に新しい命の予告が語られ、そのとおりに成就する出来事は、人間の「常識」だけでは受け止めきれません。アブラハムの妻サラは、イサクの誕生の予告を三人の旅人の姿を借りた主の御言葉によって聞きました(創世記18:14)。エリサベトは夫ザカリアに現れた天使の口を通して(ルカ1:13)、そしてマリアはガブリエルの祝福の言葉によって(ルカ1:31)救い主をみごもります。
今日の御言葉も、神の人エリシャの予告によって、新しい命が一人の婦人に与えられます。ところが、その出来事は単なる出生の喜びのみを語るのではなく、せっかく与えられた命を喪うという悲しみ、さらにその命が蘇生する、二重、三重の神の御業が告げられていました。身の上に起こった事により、この女性自身もまた新しくされていきます。
1.婦人の「敬虔」に隠されている恵みへの躊躇
シュネムは、北イスラエルの首都サマリヤや、カルメル山、南のギルガルやエリコに通じる街道筋にある町です。たびたび訪れるエリシャとの交わりのなかで、彼の働きの尊さに気づき、旅の疲れを癒せる部屋をもうけて手助けする婦人。それにしても、エリシャが「何をしてあげればよいだろうか(13節)」と言うほどの献身ぶりです。同じ13節の「何事にも心を砕いてくれた」との言葉は「ハーラド:震える」という意味をもち「恐れつつ仕える」とも訳されるものです。彼女の姿から、切実な願いが「何かあるのか」とエリシャは心を砕きます。
これに対する彼女の答えは「同族のものに囲まれて何不足なく暮らしている(13節)」というものでした。じつはこの彼女の返答のなかには「アノーキー:私自身は」という強調する言葉が含まれています。言外の意を汲めば「私自身が生活する分にはとくに困っていません」という生活上の満足のみが語られていることになります。敢えて強調しながら語る彼女の言葉から、エリシャは、なおも彼女への配慮について考えることを辞めません。「彼女のために何をすればよいのだろうか(14節)」と従者ゲハジにさらに問います。従者ゲハジから「彼女には子がない」と聞き、婦人の心の奥にある願いを知り得たエリシャから、予告が告げられていきます。しかし子を与えられる予告を聴いても「いいえ、わたしの主人、神の人よ、はしためを欺かないでください(16節)」と、彼女は喜ぶことはありません。エリシャを神の人と呼び、語られる言葉が神よりのものと知りながら、神の奇跡への疑いも隠すことのできない複雑な感情が窺えます。
はたして、神の人エリシャを通して語られた予告のとおり、子が与えられることとなりました。まず神の恵みの約束が言葉として先行し、のちに恵みが実現していく様子は、聖書が一貫して語るとおりです。こうして与えられた子は大きく育っていきます。
ところが父との農作業中に頭の痛みを訴えて命を落とします。熱射病、過労、脳梗塞など、いろいろな推測をする人がいます。しかし、一度は与えられたこの子の命が病でもなく命を落としたところに、「神の御手が及んだ」と読み取るほうが、よりここの箇所が語る信仰的な主題に即していると思われます。
それゆえ、この婦人の苦しみは計り知れません。「神の人のもとに急いで行く(22節)」ことを心に決め、「わたしが命じないかぎり進むのをやめてはいけません(24節)」と神の人エリヤを目指して進みます。そこからは、与えられた子を救ってくださるのは、神の人によって語られる神の言葉のみとの縋る思いが伝わってきます。
エリシャのもとにたどりついた婦人は、その足にしがみついて離しません。主の恵みを手に入れたのも束の間、また与えられたものが奪われてしまったのです。「欺かないでくださいと申したではありませんか(28節)」との言葉には悲痛な響きが込められています。はじめからこの子が与えられていなければ、感じることのない苦しみでした。その苦しみを率直に訴えています。
苦しんでいる魂に配慮するためには、エリシャは、この婦人に寄り添うことに徹底します。婦人が近づいて来た時には「お変わりございませんか(26節)」と気遣っていました。そして婦人の来訪に隠された御心を求めます。さらに苦しむ魂の傍らにいることに徹底するために、従者ゲハジに杖をもたせて先に行かせます。行くべき先を示して安心させながら、失意の婦人と自分自身は共にいることを選びます。
3.神の御前にひれ伏す、新しい民の創造
師のエリヤに霊の分前の二つ分を授かったエリシャは、かつてのエリヤが行った蘇生に近い仕方を執ります(列王上第17章参照)。かくして子供は目を開き、「あなたの子を受け取りなさい」とエリシャから婦人の手に、子供の命は戻っていくこととなりました。
彼女は近づいてエリシャの足もとに身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子供を受け取って出て行った(37節) 神の言葉を語るエリシャへの拝跪は、決してエリシャという一人物へのものではなく、約束を果たす神の言への礼拝です。神の人エリシャのために部屋を設けて「震えながら」献身的に仕えた婦人でした。しかし神の人の言葉に自分の最も願うところを隠し、恵みの言葉を疑っていたところに、新しい創造が起こされる余地が残されていました。自分の置かれた境遇に満足するだけでなく、心のなかにある望みについて神の御前に注ぎだし、大胆に恵みを願い、心から神の御言葉にひざまずく信仰を持つことができるように、これらの出来事を起こされておられたのです。彼女のように、主を真心から礼拝する新しい信仰者が育てられ、「礼拝者」としての新しい命が起こされることを大胆に願うことも、わたしたちの祈りではないでしょうか。
神の御業は、心のなかを御前に注ぎ尽くして礼拝する民を新しく選び出します。シュネムの町のすぐ近くには、ナインという名の町があります。ルカによる福音書第七章では、夫に先立たれたナインの街に住む婦人が、一人息子を喪った出来事が記されます(ルカ7章)。このとき町の門の前で、葬儀の群れとイエス様の一行が遭遇します。イエス様は棺桶に触れながら、この息子に新しい命を与えました。このとき葬儀の悲しみのなかに苛まれていた町の人たちは、奇跡の業を見て、こぞって主なる神様を賛美する民となっていきました。
「神様からの素晴らしい賜物だと思っていたのに、奪われるならば与えられなければよかった」シュネムの婦人が置かれた境遇に心を寄せるとすればこのように言えると思います。全能の主なる神こそが、すべてを与え、またすべてを奪うお方であることは、動かすことのできない真理です。此の厳然たる神の姿を示され、ヨブは財産と健康と家族を失いながらも祈りました。「主は与え、主は奪う。主の御名は賛美されよ(ヨブ1:21)」。
恵みの御業を起こされるお方はどなたであるかを知り、そのお方を礼拝し、賛美し、愛し抜く豊かな生涯へと、聖なる神は導いておられます。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)心のすべてを注ぎだす平安を覚え、礼拝を通して神を愛する民が創造されることを主は御心に定めておられます。
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