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2019年7月17日祈祷会:列王記下第6章1-23節

 

 列王記下は、始まってすぐに預言者エリヤからエリシャへの代替わりを語ります。エリヤに勝るとも劣らず、後継者とされたエリシャを通して主の御業が次々と起こされていきます。ところで、今日の箇所では一見、独立したような二つの奇跡が記されていました。「無くしものを見つけてくださる」奇跡と「敵軍を平和に追い返す」奇跡。双方、行う相手も、規模も、内容もまったく異なります。「エリシャにまつわる個別の伝承を、時系列を意識せずに羅列した箇所」と主張する人がいる一方で、聖書を信仰の導きの書物(正典)として読む以上「このように配置されたところにも主の御心がある」と信じて聞き取る人がいます。そうだとすれば、この二つの伝承からどのような御心が聞こえてくるでしょうか。

1.見失ったものを見つけ出させてくださる主

 「預言者の仲間たち」は、以前も紹介したように「預言者の息子たち」とも訳すことの出来る言葉です。エリヤが教え、エリシャに託された御言葉を学ぶ後継者たちです。主なる神様への不信仰が極まる北イスラエルにあって、預言者の跡継ぎが生まれていたことは嬉しいことです。しかも「狭すぎる(1節)ということで新しい建物を建てようというのですから、人数も増えつつあったのでしょう。一人ずつ材料となる木材を切り出す現場で、一人の預言者が借り物の鉄の斧を水のなかに落としてしまいました。そこに居合わせたエリシャに「ああ、御主人(アハー、アドニー)よ、あれは借り物なのです(5)と訴えたところ、鉄の斧が浮き上がって事なきを得たという、ユーモアすら感じさせる出来事でした。

 それにしても、この鉄の斧を落としてしまった人は、預言者が一緒に住む家を作るにあたり、鉄の斧を借りてまでして加わった人です。紀元前8世紀頃のパレスチナでは、鉄器はまだ貴重な道具だったはずです。これを借りてでもこの人は、仲間たちと主の御言葉に耳を傾けるための建物を建てる計画のために、力を注ぎたかったのでしょう。 

鉄の斧がうっかり手から抜けたということは、それだけ懸命に木を切って勤しんでいたのです。御言葉の御用のために力を注ぐなかで、その手段や方法を見失うことは、あり得ることです。その労苦のなかで起きた失敗を、主は決して侮るお方ではありません。このときのエリシャの奇跡に現れたように、また失われたものを見つけ出させてくださいます。方法を見失い落胆してもつまずかないように、見つけてくださる主の御言葉。ここでまず、「見えるように見つけ出してくださる」主の恵みを聞き取ることができるでしょう。

2.見えなくされたのちに、啓かれて見える

 さて、無くしものが見つかるというささやかな出来事のあと、場面は一気に国同士の争いへと移ります。北イスラエルをたびたび脅かしていたアラムが、また登場しました。このたびのアラムの王は、ナアマンの癒やしの時とは違い、北イスラエルに用意周到に攻め込みます。イスラエルに敵対する典型的な異邦人の姿と言えます。これに対しエリシャは、積極的に北イスラエル王を助け、国土を防衛します。これもまた、かつての士師を思い出させるような典型的な救済者の姿です。

 「異邦人VSイスラエル」という伝統的な戦いの構図のなかで、エリシャに現れる主の御業は、アラムの策略をことごとく言い当てるものでした。怒り狂ったアラムは、まず元凶を除くために、エリシャに軍を差し向けます。サマリアよりさらに北方の街、ドタンが大軍に囲まれることになりました。

 エリシャの召使いは大軍を目前に悲鳴を挙げます。「ああ、御主人よ(アハー、アドニー)、どうすればよいのですか(15)。鉄の斧を落とした人と同じ叫び声には、すっかりこの御主人に頼っている姿が現れています。頼り切っている人に救いの叫びをあげたとき、力強い言葉が聞こえてきたならば、なんと嬉しいことでしょう。「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い(16)と勇気づけ、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください(17)と願いました。霊のまなざしが啓かれた召使いが見たものは、山に満ちた天の軍勢でした。ここでも主は、希望を見失って叫び声を上げる人に、見出させてくださいます。

 さて、見えなくなる人はエリシャの味方だけではありません。敵のアラムもまた見えなくなります。エリシャはまた主に祈ります。「この異邦の民を打って目をくらましてください(18)。ところがエリシャはこの見えなくなった異邦の民を、滅ぼさず、導きます。見えなくなった異邦の民に「これはあなたたちの行く道ではない。これはあなたたちの求める町ではない。わたしについて来なさい。あなたたちの捜している人のところへわたしが連れて行ってあげよう(19)。この言葉は、彷徨う異邦民を導いてくださる主の御言葉そのものです。

こうして導びかれたアラム兵たちは、サマリアで目が開けます。おさまらぬイスラエルの王は、裁きを進言しますが、エリシャは穏便に異邦の民を食卓に招きます。そして無事に住むところへと返してあげるのでした。見えなくなっていた異邦の民が導かれ、食卓を共にして、また生活の場に帰っていく姿に、なにか見えていなかったものが見える思いがします。 

3.あえて目をさえぎり、真の主との食卓へ

 新しい御業のために一生懸命に斧を振るっていた人は手段、方法を見失ってしまいました。しかし主はつまずくことがないように、また見つけ出させてくださいます。敵の来襲に恐れた召使いには、霊のまなざしを与えて、天の軍勢が共にいることを示し、誤ったものを探し求めている異邦の民には、いったん目を遮らせながらも、導いた後に目を啓かせて、食卓に就かせます。

 このように主は、見えるようにしてくださるお方です。新約聖書から一つ、引くとすれば「エマオの道行き(ルカ第24章)」です。見えなくなった人たちが見えるようにされていました。主を十字架で見失い、復活を信じられず悲しむ二人の弟子に、復活の主が近づかれたときも「目が遮られていた(ルカ24:16)と、主ご自身がその眼をいったん遮ったと言われます。わたしたちは見失うことを恐れますが、主は御心を示すために、あえてわたしたちのまなざしを遮ることもなさいます。それは誤ったものを求めているところから眼差しを引き離し、捜すべき真の主のお姿に、もう一度目を啓かせてくださるための豊かなお導きなのです(19)

 よもや旅行きを導いてくださっていたのが復活の主とはつゆ知らず、共に食卓に与ったとき「そのとき二人は目が開け、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった(31)。異邦の民をすら食卓に招く主は「あなたたちの捜している人のところへ連れて行って」くださいました。この時、御言葉に仕えるための見失っていた手段、方法が、再び浮き上がり、見出すこととなります。すなわち、ひとりひとりの斧を振るって木材をもちより、家を立て上げ、主の食卓に招き続けること。そのための方法も主が見出させ、導いてくださいます。

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