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2019年8月11日主日礼拝説教

聖書 イザヤ書第5章1-7節

説教『歌声はぶどう畑に』 伝道師 三輪恵愛

1.ぶどう畑が良い実を実らせるように、手を尽くす主人の姿

 作物を植える人は誰しも、美味しい、甘い実がなることを期待しながら労することでしょう。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を(1節)歌声は、ぶどう畑の主人が、良い実が実るように手を尽くす姿を歌い上げます。良く耕し、よく耕し、見張りの塔をたて、実りを受け取る酒ぶねをもうけます。そして、いよいよ良い実を受け取れるかとおもいきや、実ったのはすっぱい実でした。紀元前740年頃、イザヤを通して語られた預言は、正しい裁き(ミシュパト)と正義(ツェダカ)の実りを願う主の期待にも関わらず「流血(ミスパハ)」「叫喚(ツェアカ)」が絶えない、「良い実」とはほど遠い歩みをたどった国の姿を伝えます。

2.「実りの責任は誰にあるのか」と問う主人は、ご自分の正しさゆえに・・・

 「わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ(3節)7節でも用いられている「裁く・ミシュパト」、すなわちどちらが正しいか、誤っているかを判別する言葉を用いながら、落胆を隠せない主人は、問いかけます。「良い実がなるために、まだできることがあるのか」反語表現のようですが、同時にこの主人が、さらに良い実りのために、熟考する姿を示しているようにも聞こえるところです。ぶどう畑の主人、すなわち主なる神は、ご自分の正しさ、ご自分の全能のゆえに責任を果たされます。良い実がなるためにできることを尽くそうとされるお方なのです。

3.正しき主人は最も良い実を実らせる「まことのぶどうの木」を植えられる

預言書は、歴史のなかで救い主を指し示します。そして「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である(ヨハネ15:1)救い主自身もまた、ご自分がぶどうの木であると語られました。「主が楽しんで植えられた」このまことのぶどうの木も、ひとたび「流血」「叫喚」の姿をしめされます。それは、ご自分の正しさゆえに、「わたしの愛する者」を送ってまで、良い実を実らせられない苦しみを、共に担うためでした。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を」まことのぶどうの木が植えられた畑であればこそ、良い実のために手をつくされる主人に信頼しながら、良い実の実りを楽しんで待ち望むことができます。ぶどう畑に響く「愛する者のため」の歌声がやむことはありません。

【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

 

 

 

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