2019年8月25日主日礼拝説教
聖書 ルカによる福音書第13章10-17節
説教『喜びの時は今』 伝道師 三輪恵愛
1.ここでの安息日論争が伝える、「恥じ入る反対者たち」と「喜ぶ会衆」
数え方にもよりますが、福音書には約12箇所の「安息日論争」が記されています。当時の宗教者たちは、律法の肝でもある「安息日遵守」を強く説きました。「その日は労働を止め、安息のうちに神の御言葉に聴き、礼拝せよ」との教えにあっては、喫緊の救いを求める声もかき消されます。しかしイエス様は安息日にも救いの御業を示しながら、律法の頑なさを論駁します。概して、論争の末に反対者たちは憎しみを募らせ周囲は沈黙したままですが、このルカ13章では、反対者たちが己の姿を知って恥じ入り、周囲の人たちは喜ぶ姿が印象に残ります。
2.礼拝に集いながらも、身を伸ばして賛美できない悲しみの安息日
イエス様に怒りをむける会堂長の言葉に信仰の在り方がにじみ出ています。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない(14節)」まず、救いの御業を、六日間のうちにすべき労働と理解しています(見返りを求める手助け)。次に、目の前で神の憐れみが一人の人を救ったにも関わらず関心を示しません(奇跡を見出す眼差しの欠如)。そして18年間、あるいはそれ以上、おなじ会堂で礼拝を献げていた女性の苦しみを後回しにしていました(救いの緊急性を知らない)。家畜の世話を優先する自己中心も指摘され、彼は恥じ入ります。
3.救いへの招きの言葉は後回しにされない。「今、ここで、神賛美の喜びへ」
腰が曲がっている女性が何歳だったかは明らかではないものの、人生の大半は病の姿を曝しながらの生活です。そして18年間も礼拝に集い続け、眼前の会堂の床と汚れた足々を見ながら、幾度となく、身を伸ばして主を賛美したいと願ったでしょう。ところがその日、会堂で御言葉を「教えておられた」イエス様は、その女性の救いの時を逃しません。「呼び寄せ」、「病気は治った(‘解き放たれた’の意)」と宣言し、伸ばすことが出来ないところに手(複数、つまり両手)を置きます。なんども安息日に集いながら救いをいただけない日々の果てに、ようやく彼女は全身を天に伸ばして「神を賛美した」のでした。「恥じ入る(‘落ち込む’の意)」会堂長たちも、我が身を省みつつ、心のなかの'曲がり’を知ります。イエス様はそこにもまた手を置かれるでしょう。神の賛美へと、心を伸ばしてくださいます。
【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】
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