2019年8月7日祈祷会 列王記下第9章
1.召し出された事実を、語り直して得る確信
前章で謀反を起こしてアラムの王となったハザエルは、預言のとおり北イスラエルに攻め込んできました。ヨラム王は要衝ラモト・ギレアドの防衛戦で手傷を負います。後事を、イエフを含む幕僚団に任せて、療養のためにイズレエルに後退しました。イエフの油注ぎは「王が不在の最前線」という、信頼できる指導者がいない緊迫した状況で成されました。
このイエフは将軍の一人ではありましたが、特別な地位にいたわけではなかったようです。「軍の長たち」が一同に会しているなかで、エリシャが遣わした若い預言者が「将軍」と呼びかけますが、「我々のうちの誰に対してか」と問い返しています(5節)。これらのやりとりから、イエフはヨラム王に仕える幕僚の一人に過ぎなかったことが覗えます。イエフにとっては思いも寄らない選びであったことは、6節から10節にかけ、若い預言者が主の選びの御言葉を語ったにも関わらず、半信半疑に受け取っていたことからも覗えます。「どうだった?」と問う同僚たちに向けて「あの男が誰で、何を言ったのか、あなたたちには分かっているはずだ(11節)」と、はぐらかすように答えています。この「何を言ったのか」という言葉「シーハー」は、「たわごとを言う、意味のない戯言」という具体的な意味を持つ言葉で、若い預言者の言葉をイエフはまともに取り合っていなかったかのようにも聞こえます。もしも同僚たちが問いかけ、イエフ自身の言葉で、聞いた預言を語り直させることがなければ、イエフからは語り出すことはなく、油注ぎの真実は表に出ることがなかったでしょう。
エリシャは、この若い預言者に預言の言葉を語ったら「ぐずぐずしないで」逃げ去るようにと命じていました(4節)。これは、主が語られる御言葉を伝えることと油注ぎに徹底させること、またイエフの身にただならぬことが起きたことを、同僚たちに気づかせるための配慮であったことがわかります。イエフだけに何事かを語った若い預言者が一目散に去っていく様子をみて、同僚たちは「なぜあの狂った男が」と怪訝に思います。しかしそのことが、イエフにただならぬ事が起きたとの予感も与えます。「『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とする』(3,6,12節)」との預言を彼自身の言葉で、語らせることになったのです。
主に仕えるために、具体的な役目に召し出されるとき、自分自身の理解だけではいま一つ確信がもてないことは常に起きうることだと思います。そこに、共に信じる仲間からの問いかけと、それに応える言葉のやり取りのなかで、主が選んでくださったとの自覚は、少しずつ固められていくものです。イエフにしてみれば、同じ務めにある仲間たちのなかから「なぜわたしだけ?」という思いもあったでしょうし、アハブ王家に反逆するという大それた業に仕える意思は、一人だけでは生まれなかったでしょう。油注ぎだけではなく、預言を運び、伝えることに集中した若き預言者の姿が、同僚たちの注意を促しました。イエフが聞いた預言を、自分の口で語り直すなかで、選びの戸惑いが確信に変えられていきます。
2.選ばれた後の行いにより、証しされる主の栄光
はじめは預言を「たわごと」などと思っていたイエフでしたが、同僚たちはすぐに「上着を脱ぎ、階段に敷く(13節)」という新しい王を迎える所作で、イエフの選びを喜びます。察するに、すでに同僚たちはイエフのなかに特別なものを感じていたのでしょう。
なによりも主がイエフを選んだ理由が次第に明らかにされていきます。「もしあなたたちが本気でいるなら(15節)」と、同僚たちの協力に信頼しつつ、ヨラム暗殺のために全力を尽くします。イエフが全軍を挙げてイズレエルに戻ってくる様をみて、次々と理由を問う伝令が送られますが、秘密を守るために「わたしの後ろへ回れ(18,19節)」と、ヨラムのもとに情報が伝わらないように手を打ちます。イエフはこれまで忠勤に励んで、ヨラムの信頼を得ていたのでしょう。疑いもなく迎えるヨラムでしたが、ここでイエフの信仰的な怒りが吐露されます。「あなたの母イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か(22節)」。そうして害したヨラムの遺骸は、あの無実の罪を着せられて殺されたナボトのぶどう畑に打ち捨てられるのでした。これらの果断と信頼、また主なる神への信仰に裏打ちされた行いから、やはりイエフは選ばれるべくして選ばれたとも言えます。務めを与えられた人が、その働きのなかで主の選びの正しさを証していくところに、栄光は主にのみ帰する真実が示されています。
3.復讐、報復から解放され、励まされる教会
イエフの追求は、ヨラムと共に戦っていた南ユダの王アハズヤにまで及びました。このアハズヤ王は、母アタルヤがアハブの父オムリの孫ですから、アハブの姪の子にあたります。彼もアハブ王家の血をひくものとして、命を落とすこととなりました。
本章のイエフの謀反によって果たされる御業は大きく二つです。一つは「わたしはイゼベルの手にかかったわたしの僕たち、預言者たちの血、すべての主の僕たちの血の復讐をする。アハブの家は全滅する(7,8節)」と言われたように、犠牲となった預言者のための復讐です。もう一つは「『わたしは昨日ナボトの血とその子らの血を確かに見た、わたしはこの所有地であなたに報復する』(26節)」に示される義人のための報復です。
預言者たちは、エリヤがアハブやイゼベルと対決した頃から主の御言葉を共に語る務めにいた人々でした(王上19章)。またナボトは、王の権力に屈せず、主の嗣業の土地を手放さなかった義人です(同21章)。迫害の嵐が吹き荒れ、正義が歪められる時代にあっても、主の御言葉を告げ広め、主の恵みの業を尊びつづけた人たちです。
復讐に報復と、恐ろしい主の御業を垣間見ることですが、それは主の御言葉に忠実であり続けた人々のために起こされたものです。これを知るとき、もはや復讐や報復は人の手を離れていることを告げられています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります(ローマ12:19)」
時代が不正義に傾くとき、御言葉のもとに預言者の務めを与えられた教会は、「然り」と「否」をはっきりと語り続ける務めに召し出されています。不正義に身をやつしていると思える人々に怒りを抱くこともありますが、怒りと憎しみは新たな諍いの火種となります。復讐を神に任せ、憎しみから解放される時、教会の闘争は人間性を破壊する構造そのものに立ち向かうことになるでしょう。「そのような大それた業を果たせるだろうか」と思えるところに「それは違う、我々によく説明してくれ(12節)」と、現代の預言者なる教会は、聞き取った神の御言葉を語り直してほしいと世に求められています。油注がれた人「メシア(へ):キリスト(ギ)」の体なる教会の大切な業です。
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