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2019年8月21日祈祷会 列王記下第11章

 

(録音機の不調により、音声はありません)

北イスラエル王イエフの働きは、彼の治世の後も波紋を残しました。北王ヨラムと同時にイエフに倒された南王アハズヤの死が、南ユダ王国に動乱をもたらします。彼の母アタルヤが権力を建てあげようと試みますが、かえって野心は打ち砕かれ、南王国でもバアル礼拝が滅ぼされます。これもイエフが召された理由の一つと言えるでしょう。

1.幼子に遺されたダビデの血のために

中心となる人物、アハズヤの母アタルヤは、北王国でバアル礼拝を強要したアハブとイゼベル夫妻の娘にあたります。18節以下で、バアル神殿とそれに仕える祭司たちが排除されていることから、アタルヤ女王もバアル礼拝を尊んだ人だったことが解ります。北王国からもたらされたバアル礼拝は、南王国にも及び、侵食し始めていました。

同時にアタルヤは、権力への野心も両親から受け継いでいました。実の息子アハズヤが死んだにも関わらず、彼女はそれを好機にアハズヤの血族を滅ぼそうとします。なんとその魔手は、孫であるヨアシュにまで及びます。にわかに信じがたい蛮行ですが、権力に酔いしれた人物が、血族を葬る事件は歴史には珍しいことではありません。また命を奪うまでに至らずとも、自己正当化が家族の絆を壊し、家庭を壊していく恐ろしさを思えば、現代にも巣食う深い悲しみを見いだせます。

あわや乳飲み子のヨアシュは命を奪われるところでしたが、この子にとって叔母にあたるヨシェバと乳母が協力して、なんとか彼の命だけは助けることができました。アハズヤの王族がどれほどいたかは記されませんが、選ばれたのはこのヨアシュ王子だけだったようです。助かったのが一人だけとは哀れな思いもしますが、それだけにヨアシュの救出の意義深さも加わります。この時、南王国に残されたダビデの血を引く王子は、ヨアシュしか残されていなかったからです。

ヨアシュを巡る人々は、ダビデの血統を遺すために命を懸けていくことになります。ヨシュバと乳母、まずは幼い王子を身近にあって可愛がった女性たちが抜群の働きを残しました。これを承けて、祭司ヨヤダが王子を神殿に匿います。この人物は、同時代の出来事を伝える書物、歴代誌によればヨシュバの夫でもありました(歴代下22:11)。

この夫婦の手によってまずは六年、難を逃れた幼子ヨアシュが成長していきます。

2.主の神殿で与えられた務めに励む人々

聖書にはしばしば、主が選ばれる人物が、まだ力が及ばない幼少期にひとたび難を逃れる様子が記されます。モーセは、エジプト人の男児殺害の命令を逃れて、ナイル川に流されたところ、エジプト王家に育てられることとなりました。まだ力も出せない幼子の姿が、かえって周囲の人を守るために動かします。幼子ヨアシュも、ヨヤダとヨシェバの守りのもとに置かれながら時を待ちます。

「七年」という歳月は、ヨアシュ王子が王として選ばれるために必要な期間でもありますし、「七」という聖書における完全数が、神が定められる相応しい時を示しているとも思われます。ついに時が至り、ヨヤダはダビデ王家の復権とバアル礼拝廃絶のために力を尽くします。4-12節では、王子の命を守るために多くの人々が召し出され、油を注がれた若きヨアシュ王の姿に「王万歳(イェヒー、ハンメレク・王の命が永らえますように!12節)」の喜びの声をあげます。

この時、ダビデの血をひく王の油注ぎのために、祭司ヨヤダが慎重に人々を導いていました。彼はまず仕え人たちを、ヨアシュ王の警備のために働かせます。安息日にも関わらず多くの兵を動員し、ヨアシュの命を守らせたのは、ヨヤダが祭司であったこともありますが、なによりも主の神殿で契約を結び誓わせ、守るべき王子の姿を見せたところに(4節)大きな信仰的意義を見いだせるでしょう。「カリ人、近衛兵、百人隊の隊長」は主が御業のために召し上げた仕え人です。安息日でありながら、信仰の希望となるヨアシュ王子を守るため、奉仕の業が献げられています。それは安息の日に、主が定められたことに仕える行為でもあります。ここにおいて安息日は、主の神殿に憩う平安を享受するとともに、守るようにと定めた契約、誓約、主が選んだ王子の姿を見て、信仰のために主に仕える日とされています。

しかもそこに異邦人であるカリ人が選ばれているところに、新約の兆しを見出します。ペリシテ系の異邦人クレタ人(サムエル下20:23)とも同一視される彼らは、かつては異邦の神々に仕える人々でした。しかし主の御前に契約を結び、誓いをたて、守るべきものを示されて勇躍、御心のために働いています。彼らの働きによって、アタルヤの野望は潰え去り、バアルの神殿も祭司も、エルサレムの地から拭い去られることとなりました。

3.「守る」ために召されたものが、等しく守られる

「謀反、謀反(ケシェル、ケシェル)!」と虚しく叫ぶアタルヤ。「結託し、逆らう」ことを意味する言葉ですが、むしろバアル神と結託し、真実のご存在である主に逆らったのはアタルヤのほうでした。契約を結んだ民の一人として生まれながら、命の源に逆らい、偶像礼拝を繕って自らを神とし、権力を恣にした人の末路は哀れです。

アタルヤとの姿とは対象的に、ふたたびダビデ王の血筋を戴くことになったユダの民は、二つの契約を結んでいきます。一つは「主と王と民の間に、主の民となる(17節)」契約です。これは、まず主なる神に対して、王と民が共に主を礼拝する民となる契約です。そして王と民が同一の民であることを確かめたうえで、次に「王と民の間」が導く側と、支える側としての相互の関係を確かめます。いわば信仰上は等しく主の民であることを優先し、そのうえで相互の役割の違いと協力関係を明らかにしたものと言えます。

権力者が偶像を拝むことに身を任せれば、いつしか自分が神になっていきます。しかし主なる神を礼拝する民は、すべての民が等しく相応しい役目に召された尊い存在です。それゆえ互いの立場や役目を尊重しながら、共に主に仕える世のために働くことができるのでしょう。

その中心として、本章で主が示された存在は幼子ヨアシュでした。一言も語らぬ彼の存在ですが、幼子としての弱さとダビデ王の血統としての尊さゆえに、周囲の人々を動かしていきます。主は、弱さを守らせる働きを通して、じつは守ってくださるお方でもあります。モーセも赤子から守られてきた指導者でしたが、なによりも救い主であるキリストが幼子の姿を示され、マリアヨセフは言うに及ばず、三賢者にシメオン、アンナ、羊飼いと次々と、人の弱さと共にいてくださる神を礼拝する民を起こしていきます。

いかにも「弱さそのものの姿」に、人のもっとも弱きところにも伴う神の姿を示してくださいました。神に示されたものを「守るため」に仕えるとき、じつは大切な神への礼拝を守っている仕え人が、かえって神のご存在から信仰を守られている真実を知らされます。それゆえ、主なる神を礼拝する人は、また弱さを抱える人と共に生き、主の御前に互いに仕え、尊い救いの業のなかにキリストのお姿を見出すことができるのでしょう。

 

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