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2019年9月11日祈祷会 列王記下第13章

 

背信の北イスラエル王国にあって、預言者たちは命をかけて主の御言葉に応えていきました。「預言者のなかの預言者」とも言われるエリヤが天に上げられていく時、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ(14節、列王下2:12に同じ)と叫びながら見送ったエリシャも、主の御言葉を語り続けました。その彼に生涯の終わりの時が訪れました。まるでエリヤの最後を聞き知っていたかのように、枕頭で看取るヨアシュ王が同じ言葉を涙と共に語ります。エリシャは、師エリヤを天に見送った時を思い出しながら、最後の時が来たことを悟ったかもしれません。しかしエリシャは、ヨアシュ王の手に自らの手を重ねながら(16)、最後まで忠実に神の言葉を語り継ぎます。それがこの時代に「一人の救い手(5)として召された人の命そのものだったからでしょう。

1.なだめの言葉に耳を傾け、民を御覧になる主 

 エリヤに引き続き、エリシャもまた信仰が繰り返し脅かされる時代を生きました。一時はイエフ王の熱狂的な働きによりアハブ王家は滅ぼされます。その影響は北王国のみならず南ユダ王国にも波及し、南北両王国でバアル宗教が一掃されます。ところがイエフ自身は、建国王ヤロブアムが始めた「金の子牛」礼拝はやめられず、その息子ヨアハズも父と同じく「ヤロブアムの罪に従って歩(2)みます。民の目をエルサレムから首都サマリアに向けさせ、王家への関心を集めようとする「金の子牛」政策は、権力と信仰心を同時に掌握したい北王家の宿痾となっていました。

 「金の子牛」礼拝をやめられない北イスラエルにたいして、主はアラム王ハザエルを用いて怒りを示され(3)ます。「彼らを絶えずアラムの王ハザエルの手とハザエルの子ベン・ハダドの手にお渡しになった(3)とありますから、長年にわたってアラムから圧迫を受けたと思われます。「しかし、ヨアハズが主をなだめたので、主はこれを聞き入れられた(4)。「金の子牛」を礼拝するヨアハズでしたが、国を治めるものとして主の助けを求めずにはいられなかったのでしょう。

さて「なだめ(ハーラー)」という言葉から思い浮かぶものは、祭儀律法のなかで定められている「宥めの香り」かもしれません(出エ29:18参照)。しかし、ここではヨアハズ王が主をなだめるために、具体的になにを行ったのかは記されていません。むしろここでは「ヨアハズが何をしたのか」ということよりも、主が宥めの言葉を「聞き入れられた(シェマー)こと、そして「主はイスラエルが圧迫されていること、アラムの王が彼らに圧迫を加えていることを御覧になったからである(4)と、主が民の苦しみへと目を向けていることを伝えようとしています。

2.主は「聴け」と命じるだけでなく、御自分も聴く

ところで「なだめ(ハーラー)」が用いられている箇所として、出エジプト記第32章にこのようなモーセの言葉があります。「モーセは主なる神をなだめて(ハーラー)言った。『主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか』(11)」。これは、モーセが十戒を受け取りにシナイ山に登っている束の間、「金の子牛」を作って民が大騒ぎをしていた時のことです。主は怒りを燃やされ民を滅ぼそうとされますが、モーセは「御自分が導き出した民ではありませんか」と主のまなざしを民に向けさせます。ここでも、主はモーセのなだめの言葉を聞き入れて、怒りをしずめられました。

聖書が伝える主なる神との交わりの要点は言葉と応答です。なだめるヨアハズ、あるいはモーセの声に、主は耳を傾け(シェマー)ました。主は、御自分の民に「聴きなさい:シェマー(申命6:4)と命じられますが、ご自身も民の言葉に「シェマー」されるお方です。語りかける言葉に耳を傾けながら、御自分の言葉に応える民を、主は御自分の民として必ず守られる方なのです。

御自分の民の苦しみを知り、主は北イスラエルに「一人の救い手」であるエリシャを送ったのでした。5節の言葉はエリシャを指す言葉としては唐突な印象も受けますが、エリシャの死を記す第13章のなかで、彼の預言者としての生涯をあらためて振り返る言葉となっています。主の御言葉に応える民を守るために、言葉を取り次ぐエリシャが遣わされたことを強調する一句となっています。

3.神の御言葉を聴き取り、応答し続ける生へ

 エリシャの生涯を振り返れば、彼が御言葉をもって救ってきたのは、立場の弱い人や異邦人でした(シュネムの婦人:4章、ナアマン将軍の皮膚病の癒やし:5章、仲間の預言者たち:6章、エルサレムの飢饉救済:7章)。これに対して、北イスラエル王家との関係は、あまり良いものではなかったと言えます。歴代の王たちから、エリシャの厳しい裁きの言葉は忌避されます。しかし立場の弱い人や異邦人らが心砕かれて救われていくなか、ヨアシュの代に、ようやく「一人の救い手」であるエリシャへの信頼が堅くされていたようです。死の病に患うエリシャに泣きながら「我が父よ」と涙するヨアシュ王の姿に、預言者への絶大な信頼が伺えます。アラムの脅威の前に、王はようやく御言葉を聴き、これに応える大切さを思い知ったのでしょう。

最後まで預言者の務めを果たそうとするエリシャは、死の病にありながら、王に手を重ね、矢を射させます。アラムの国土がある東の空へ矢を射れば、すぐさま勝利を約束するエリシャでした。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす(17)。次に、エリシャは地面を射させます。ここで矢を射るヨアシュでしたが、彼は三度でやめてしまいます。これに神の人は怒って、三度しかアラムを破ることができないと預言するのでした。臨終に際しても甘さを残さず、主の怒りを示し、最後まで預言者としての務めを果たします。

厳しい予告ですが、ここから、ヨアシュのエリシャへの信頼の反面、御言葉に答え続けることへの「甘さ」を見出すこともできるでしょう。エリシャを通して語られる主の言葉「地面を射なさい」に応え始めたのであれば、東の窓の時と同じく、次の御言葉が語られるまで射続けるべきだったのです。主の御言葉への応答は、ひとたび初めた以上、途中でやめるべきものではありません。宥めの言葉に耳を傾け(シェマー)てくださる主との交わりですから、その方の民として生きていくということは、主の御言葉をシェマーし、応え続けるということなのです。

葬られたエリシャの骨に触れた人が、自分の足で立ち上がった伝承は、事実以上のことを語ることはできないものです。受け止めるよりほかないでしょう。しかし神の生ける御言葉は、確かに人を新しい復活の命に立ち上がらせます!神の御言葉へ聴き、何度も応答し続けるなかに信仰の源があります。生ける神との言葉への応答そのものが、わたしたちの救いであり、命なのです。

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