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2019年9月18日祈祷会 列王記下第14章

エリヤについで、エリシャも世を去りました。南北王国の崩壊、そして捕囚の時代が近づいています。混迷が深まる時代にあって、南北の王たちはそれぞれ正しいと思うところを果たしながら、いま一歩、主の御心に至りません。しかし主は、それでも御言葉を語ることをお辞めになりません。エリシャ(行動の預言者)以降は、預言書に名前を遺す「記述預言者」が遣されるようになります。主は、語られる御言葉に打ち砕かれ、主の名を呼び求める人の救いを準備されます。王国の混迷が深まるほど、時代を貫く主の御業の確かさが鮮明に顕されていくようにも思われます。


1.父ヨアシュに似た、アマツヤ王の思い上がり


 アマツヤ(“ヤハウェは力”)は、神殿の補修に力を尽くしたヨアシュ王(王下11-12)の息子です。彼は良い王でありながら、祭司の職務を的確に把握しないままに補修の責任を負わせる「勇み足」を踏んだ人です。熱心さのあまり、自分の正しさに頼みすぎるところもあった王でした。3節は、アマツヤ王が父王の姿に倣う王であったと伝えます。「彼は父祖ダビデほどではなかったが、父ヨアシュが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った(3)。なお原文は「ことごとく」が「正しい」にではなく、「ヨアシュが行った」にかかっています(関係代名詞アシェルの位置による)。したがって(アマツヤは)主の目に適うことをした。しかしダビデほどではなかった。父ヨアシュのしたことにすべてしたがった」としたほうが、原文のニュアンスにより近いとも思われます(複数の英文訳も参照)。つまりアマツヤ王も御言葉に聴く比較的良い王でありながら、父と同じく自分の正しいところを押し通す人だったということになります。


 彼の正しさは、たしかに律法に従う姿に現れています。非業の死を遂げた父の仇について、実行犯のみに刑を加え、子どもたちには連座させません。「父は子のゆえに死に定められず(6)と、申命記第2416節に従ったことが記されています。


 しかし正しさと力に頼りすぎた彼は北イスラエルに戦争を仕掛け、惨敗し捕虜になるという大きな過ちを犯します。「来るがよい、戦いを交えよう(8)と北のヨアシュ王(父ヨアシュと同名別人)を挑発します。これに対する北ヨアシュは「レバノンのあざみがレバノンの杉に・・・(9)と南北の国力の差をたとえ、「野の獣」つまりアマツヤの敵愾心が、かえって自らの国を滅ぼすことを警告します。さらにエドムを落としたこともあり「思い上がっている」と痛烈に批判します。


 この時、十部族が連合している北イスラエルは、その底力に加え、アラムを3回撃退して国力を回復させていました(王下13:25)。一方、南王国は父ヨアシュの代のときにアラム王ハザエルをなだめるために、歴代の王が聖別した宝物を費やし、蓄えは底をついていました(王下12:19)。この時の南北の国力の差はまるで「あざみ()と杉()にように歴然としていたことが覗えます。北ヨアシュの警告にも従わず、アマツヤは力に頼んで攻め込み「惨敗(12)します。エルサレムは城壁を破壊され、宝物や人質を奪われてしまいます。


この頃、記述預言者のなかで神の言葉を語った人としてヨエルが挙げられます。ヨエル書では、エルサレムが敵国に蹂躙される日が語られながら、立ち帰りを求める主の言葉が語られます。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け(2:12)。アマツヤは父王の代で聖別されたものが奪われたことへの悔い改めを待たず、また己の力に「思い上がり」同胞である北王国に刃を向けました。3節のとおり、父王に倣いながら、ダビデの立ち帰りには及ばなかった王だったと言えます。


2.北王国の絶頂と崩壊のあとに目を向けさせる


 一方、北王ヨアシュの後を継いだのが、子のヤロブアム(ヤロブアム2世)です。彼の治世に対する記録は多くありませんが、目を引く言葉が語られています。「彼は主の目に悪とされることを行い、ヤロブアムの罪を全く離れなかった(24)とあり、サマリアでの「金の子牛」礼拝を続けたことが覗えます。しかし「主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言われず、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われた(27)と記されます。主に背く王のはずなのに、彼によって民が救われたというのです。


 ここでもう一つ目を引くものは「アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり(25)。ニネベの滅びの預言を嫌がって、魚に呑まれたヨナの名が記されています。たしかにヨナ書は、立ち帰りを待つ主の忍耐、思い直され、災いを下すのを辞める憐れみの主のお姿を伝えます。ヨナがニネベから戻り、北イスラエルでも滅亡の預言を叫び、王が悔い改めたのでしょうか。その結果、イスラエルの領域は北限「レボ・ハマト(ハマトの入り口)」から南限「アラバの海(死海)」までの領土を、主が回復してくださったと、行間を補うこともできるかもしれません。。


もう一つ確かめたいことは「レボ・ハマトからアラバの海まで」という同じ言い回しを語る、同時代の預言者の存在です。羊飼いだったアモスは、南ユダの人でありながら北イスラエルで預言を語りました。サマリアでの礼拝を痛烈に批判するのが、アモス書の特徴です。そのなかに「レボ・ハマトからアラバの谷に至るまでお前たちを圧迫すると万軍の神なる主は言われる(アモ6:14)と、やはりこの頃の北王国の領土がハマトからアラバまでだったことがわかります。ヨナの預言の所在はともかく、アモスの頃は北王国の領土が広く回復していたことは、間違いないようです。


 ヤロブアム2世の治世だけを思えば、たしかにこの頃「北王国の領土の回復」という救いが起こされていたと言えるかもしれません。しかし扱われる期間と国状は、短く限定的なものです。たとえ一時的に領土が回復しても、北王国はやがては崩壊の道をたどっていくことになるのです。


3.新しいイスラエルに、約束のしるしを置く


 ところでアモスの預言は、北王国が背きのゆえに滅亡した後、そこから主の御心に立ち返る人々が起こされる約束を語っています。「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる。ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしない(アモ9:8)」「諸国民の間でふるいにかけ(9)」「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する(14)」「わたしは彼らをその土地に植え付ける(15)」。ヤロブアム2世の時代、国土は回復したとしても「つながれる者も解き放たれている者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった(26)と、混沌とした世が思い起こさせられます。


それでも主なる神はヨエル、ヨナ、アモスを遣わして御言葉を語り、主の名を呼ぶ民を遺す御業を果たされました。わたしたちが生きる今も、主につながれている者、罪から解き放たれているものがいなくなるような世にあって、教会に新しいイスラエルをもうけてくださいました。新しいイスラエルの牧者を与えられ、この方を「あなたはメシア、神の子です」と告白するところに、「地上でつなぐものは天上でつながれ、地上で解くものは天上で解かれる(マタイ16:16,19)鍵の権能を、信仰告白のうえに建つ教会に与えてくださいました。主はたしかに、新しいイスラエルにあって、御自分の国の名を呼ぶところに、名をとどめるお方です。



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