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2019年10月20日主日礼拝説教

 

聖書エフェソの信徒への手紙第6章5-9節 

説教『真心から御心へ』 伝道師 三輪恵愛

1.「信仰生活は神さまへの報いは求めない」?それでも報いを約束する御言葉

 「神に仕える」ことを誠実に実践するなかで、「報いを求めるなど、とんでもない」とも語られることがあります。たしかに教会に献げられる働きは、報いを求める思いがあっては、なかなか出来ないことかもしれません。しかしながら、聖書には、8節「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分のものであっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」のように、報いの約束も語られています(マタイ福音書には9回、ルカも4回)。せっかくの約束のみ言葉、ぜひともその報いを受け取りたいと思わせられます。

2.教会が語り継ぐ出エジプトの御業が、人間の本当の自由を気づかせていた

 呼びかけられている人たちは、エフェソの教会で礼拝をささげています。その中には「奴隷」もいました。初代教会にこういう人達がいた事実に「どうして教会は奴隷制度と戦かわなかったのか?」という問いが向けられることもあります。しかし教会は、出エジプト記から繰り返し神の言葉を聞きながら、制度的な奴隷解放だけが、人を完全な自由にすることはないことに気づいていました。エジプトから脱出したイスラエルは旅路のなかで、解放してくださった神さまを神とせず、ファラオのもとに戻りたいとすら言いました。教会はすでに「自由な身分を与えられても心は真実に解放されない」人間の不自由な姿を見出していたのです。

3.真心をこめて、あらゆる立場で仕えるときに現れる、約束の報い

 奴隷制度が存在しない社会であっても、人は与えられた立場のなかで、あるいは務めのなかで、時には家庭のなかで、負うべきものがあります。しかし奴隷たちでさえ、不自由な身分ではありながら、心までは主人に束縛されませんでした。そこで5節では「真心を込めて仕える」自由が語られます。「へつらい(“人の目に映る”という意味)、うわべで仕える」不自由な生き方から、真心を込めて仕えるなかで「神のものとされた自由に生きる」報いに目を向けさせるのです。

じつに出エジプトでいちばん初めにモーセに与えられた任務は、人々を礼拝する民として導き出すことでした。礼拝では「人が神のものとされた」真実が告知されます。そして、決して人のものとはされない真実の自由を与えられるのです。人の目を気にしながら生きるのであれば、それは窮屈で不自由なことです。しかしエフェソ教会の奴隷たちも聞いたように、キリストがすでに十字架の御業によって仕えてくださり、神のものとしてくださいました。「真心を込めてキリストに仕える」なかで、キリストのものとされている報いに気づいていけるのです!

【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】

 

 

 

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