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2019年10月9日祈祷会 列王記下第17章24-41節

 

後代の歴史家たちは、北イスラエルの滅亡について、短期的な理由には重点を置かず、長い背きの歩みに注目します。本章前半では出エジプトの出来事にまで遡り(17:7-8)、救い出してくださった主を思い起こさせます。そして契約を結んでくださった主の律法を守らず、空しい偶像を追い求めたことが滅びを招いたと結論していました。

 さて第17章後半では、アッシリアによるサマリアの占領統治について記しながら、そこで起きた宗教混交の問題を取り上げます。そして、あらためて「エジプトから導き上った主(35節)」の姿を示しながら、信仰の要点を伝えようとしています。

1.アッシリア王の合理的な政策と主の摂理

アッシリアが世界に覇を唱える大帝国に成り上がった理由に、効果的な移民政策があげられます。古代の戦争では、敗戦国は勝利者によって、滅ぼし尽くされるか、奴隷として売り買いされることが常でした。アッシリアも残虐な仕打ちを加えますが、敗北を認めて従属を誓う民には、他の地に移住させる政策を取ります。組織的に反抗する意識を萎えさせたうえで、帝国の一員として生産させました。北イスラエルの首都であったサマリアでも、同様の移民政策を敷き、アジアの東から異邦人を入植させます。代わりに、イスラエルの人々はサマリアから、見知らぬ外国の土地に入植させられていきました。

このように帝国の政策が記述なされるなかで、主は「サマリアに獅子を送る」という御業を起こされます。敗北したばかりの荒れ果てたサマリアは、野獣の住処となったのでしょう。この摂理の御業が、アッシリアの王を動かします。宗教も民を治める政策の一つと考える王は、災いを遠ざけるために、一人の祭司を捕囚から解き、サマリアに戻すことにしました。

アッシリア王にとっては、神の掟の重要性はあまり問題ではありません。ただ、獅子が暴れる理由が、入植した異邦人たちが神の掟を知らないからだと理性的に考えます。「その地の神の掟を教えさせよ(27節)」との王の決定からは、神に関わる事柄が地上の王に従属しているかのように思えます。祭司が連れ戻されて以降、獅子が登場しないので、ひとまず獅子の災いは去ったのでしょう。しかし、祭司がサマリアに戻ったことで、事態は主の御心の実現へと進んでいきます。

2.「神的なものは皆拝む」偶像崇拝者の無節操

各地から連れてこられた入植者たちは、それぞれの神々を拝んでいました。バビロンのスコト・ベノト、クトのネレガル、ハマトのアッシマ、アワ人のニブバズとタルタク、セファルワイムのアドラメレク、アナメレク。サマリアは、さながら「宗教のるつぼ」のような観だったと覗えます。

数々の異教に囲まれるなかで、祭司の働きはいったいどれほど達成できたのかは疑問です。「彼らは主を畏れ敬ったが自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。このように、彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた(32,33節)」

この祭司が宗教改革を断行し、完遂できたわけではありません。むしろ入植者たちは、なんと自国の神々を拝みながらも、主なる神をも畏れるという、宗教混交に陥ったのでした。この事実に、祭司がなんと思ったかは記されていませんが、彼らはひとまず主なる神への礼拝もささげるようになりました。「その地の神の掟を教えさせよ」との王命を果たすことはできたようです。

それにしても、これらの入植者たちの姿はこれまでになかったものです。「彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って、自分たちの神々へも仕えた(32節)。」自分の故郷の神にも仕えながら、サマリアの地の神、つまり主にも仕えることに躊躇しません。

彼らの姿は信心深いのでしょうか。いいえ、むしろ無節操というべきかもしれません。偶像崇拝に抵抗がない人々は、特に一つの神に拘らず、「神的なものであれば、なんでも構わない」という相対的な宗教姿勢になびくことがあります。とにかく神と言われるものを拝むにあたって、「霊験がある」と聴けば、手を合わせる在り方です。

祭司が戻ってきたことで、サマリアは宗教混交が起きる土地となりました。獅子のことはいつしか忘れ去られていることからも、獅子は災いは、サマリアにこのような状況をもうけるための、やはり主の御業によるものだったのでしょう。

3.霊とまことを尽くす礼拝を求める時代へ

イエス様の頃になりますと、サマリアに対するユダヤ人の憎悪は相当募っておりました。それは、本章にあるサマリアで起きた宗教混交に端を発します。サマリアに住む人達が主なる神様だけでなく異邦の神々も一緒して拝んでいるとの評価は、民族間の不和に発展していきました。

それは、サマリアを通る際に不親切なサマリア人の村に憤慨し「主よ、お望みなら天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか(ルカ9:54)」と意気がるヤコブとヨハネの姿からも覗えます。

では、後代の歴史家たちがサマリアの宗教混交を記しながら伝えた目的は、サマリアに対する差別意識を起こすことだったのでしょうか。

35節から、再び契約について説き起こし、出エジプト7章「大いなる力と伸ばした腕」、20章「他の神々を畏れ敬ってはならない」、申命記6章「主をのみ畏れなさい」など、主への一途な愛を示す主要な聖句がふんだんに語られます。ここに、前半と同じく契約を結んだ主なる神との、まっすぐな交わりが強調されているのです。とくに注目すべき言葉は、39節「あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる」

サマリアへ入植した人たちの姿は、神的なものであれば、なんにでもひれ伏してしまうことがある人間の本性を示しているかのようです。偶像崇拝は、不可知なものへの過剰な恐れや、盲信を生み出す温床ともなりえます。だからこそ、救い出す主なる神は「わたしだけを畏れ敬いなさい」と、一途な愛を求められます。それは、人間を支配しようとするあらゆる諸力からも自由にしてくださり、主なる神様以外には「頭を垂れる必要はない、自由に、堂々と振る舞いなさい」と言ってくださる恵みの言葉なのです。

イエス様は、シカルの井戸辺で出会ったサマリアの女性に一杯の水を所望されました(ヨハネ第4章)。対話のなかで、彼女が渇きを覚えるほど、まことの礼拝を欲していたことに気づかせます。女性は、サマリア人を差別せず「霊と真理を尽くして、あなたの父なる神を礼拝しなさい」と説く目の前の人が、「すべての敵(偶像)から救い出してくださる」救い主であることに気づいていきます。そして「もしかしたら、この方がメシアかもしれません(同29節)」と、町にもどって救い主の到来を告知する人になっていきます。やがて宗教混交の地サマリアにも、新しい契約によって救いをもたらす主が、訪れることとなったのです。

 

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