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2019年10月2日祈祷会 列王記下第17章1-23節

 

建国王ヤロブアム1世以来、約200年続いた北イスラエル王国が、アッシリア帝国に滅ぼされていきます。長い年月に比べれば、その最後を伝える言葉のなんと短いことかと思います。北王国は、同程度の国力であったアラムとは拮抗状態にありましたが、世界に覇を唱える大国アッシリアの前にはなすすべもありませんでした。さて、滅亡の次第は短い言葉で綴られる一方で、その理由について、後代に歴史を編集した信仰者たちによって、詳らかに記されています(7-23)。北イスラエル王国の歩みを通し、主の目に適うとはどういうことなのか、後の世代に語り伝えようとしています。

1.後世の歴史家たちが滅亡の理由を語る

アッシリア帝国が北イスラエル王国に直接、攻撃を仕掛ける発端となったのは、前章でみた南ユダ王国の王アハズの救助要請でした。アラム敗北の後、アッシリアから直接干渉を受けることとなった北の王ホシェアは、一時は南王国のように服従します。しかし、アッシリアへの服従を良しとしなかったホシェアは、同じく大国のエジプトの助力を仰ぎます。しかしアッシリアの行動は早く、北王国は滅ぼされることとなりました。淡々と敗北と捕囚が記され、ユダヤ民族は、これをディアスポラ(離散)の始まりと受け取っています。

さて、北イスラエルの滅亡を警告した預言者ホセアは、滅亡寸前の北イスラエルが、大国に挟まれながら、どちらに従うべきか揺れ動く姿を語ります。「エフライム(北イスラエルの主要構成部族)は鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼っていく(7:11)」このように滅亡の短期的な理由としては、アッシリアとエジプトの大国に挟まれ、舵取りを誤ったことが挙げられるように思われます。

このように滅亡の直接的な理由も記しながら、後世の歴史家たちのまなざしは北王国の滅亡をさらに神学的に広く、深く捉えます。7節から「こうなったのは・・・」と、出エジプトにまで遡る歴史を振り返りながら、じつに23節に至るまで、滅亡の真の理由を語ります。「イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである(7,8節)」23節まで続く、北王国の歴史の歩みは、この出だしの2節に要約されています。

確かに北王国の歴史は、始まりからヤロブアム1世による「金の子牛」礼拝の強要が起こり、その後はアハブ王家のバアル礼拝、またカナン土着の様々な異教の礼拝になびき、エジプトから救い出した主なる神に背を向ける歩みを続けてきました。その間、主はエリヤ、エリシャに代表される偉大な預言者を遣わしましたが、「『預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない』しかし彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、主を信じようとしなかった先祖たちと同じように、かたくなであった(13,14節)」。なるほど、「救い出してくださったはずの主の律法を守らず、他の神々を礼拝したことから北王国は滅亡したのだ」と理由づけているように聞こえるところです。

2.滅亡は律法に逆らったことによる天罰?

ただ、ここで気をつけて聞いておきたいところは「北王国は律法を破り、他の神々を拝んだ。だから裁きの罰として滅亡した。これは天罰である」というように「因果応報の理が理由の結論となるのかどうか」という点です。

北王国の背きの歴史が振り返られているなかで、目に留めておきたい言葉は「主が先祖たちと結ばれた契約(15節)」で触れられている“契約”です。エジプトから救い出された後、主はモーセに命じて、シナイの山でイスラエルの民と契約を交わします(シナイ契約)。主なる神様が、なぜ契約を結び、律法をお与えになるのか、シナイの山でモーセにこう語っておられます。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民である。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である(出エ19:5,6)」

ここに語られる契約の意義は、主なる神様がエジプトの奴隷の家からイスラエルを救い出されたのは、ただ解放するだけにとどまらず、契約によって堅く結びつき合うためだったというのです。「宝の民、祭司の王国、聖なる国民」として贖う(買い戻す)ために救われた主のみ言葉です。ですから、出エジプトが語る救いの出来事は「苦しみから解き放つ」と同時に「あなたをわたしの民とする」。神と民が結びつくことまでが含まれている出来事なのです。

悲しいことに北王国は、その結びつきを忘れて、他の神々を拝む者となってしまいました。救い出し、一つに結ばれた主を忘れるということは、命の意味を忘れるほどに空虚なことです。「空しいものの後を追って自らも空しくなり(15節)」罪人が作り出した物を拝むほど空しいことはありません。命の救い主に背を向けてしまったのですから、北王国の滅亡は当然の帰結と言えます。

3.神の民としてくださった贖いに活かされる

ここで語られていることは「救い主は、人々を何から解放してくださったのか、なんのために解放してくださったのか、そのことを忘れることなく、思い起こす歩みを続ける」ということでしょう。ホセアは北イスラエルにむけてこのようにも語っていました。「陰府の支配からわたしは彼らを贖う(ガーアル)だろうか。死から彼らを解き放つ(パーダー)だろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか(ホセア13:14)」救い主が人を死から買い戻そうとされる姿が預言されています。

パウロはこの箇所を語り直しながら、復活の主イエス・キリストの贖いの業を説きました。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか(Ⅰコリ15:55)」わたしたちにとっての「新しい契約」は、十字架の死と復活による「解放と買い戻し」が不断に起こされ、罪人が神のものとされたという真実です。キリストの復活によって、消え去っていくだけの空しい死から救い出され、永遠に神のものとされた確かな証が、贖い主であるイエス・キリストです。

わたしたちの歩みが険しく、試練があり、あるいは罪人としての背きが、たびたびあったとしても、それも聖なる国民として迎えいれられるための大切な準備。聖化の歩みです。「すでに救われながら、いまだ完成にむけて」、救い主は守ってくださいます。「ああエフライム、なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ、彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ(ホセア14:9)」救われたものにとって十字架は命の木です。そこに結ばれるもの、永遠の命に預かり、聖なる民として迎えられることが約束されています。

 

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