« 2019年10月20日主日礼拝説教 | トップページ | 2019年10月27日主日礼拝説教 »

2019年10月23日祈祷会 列王記下第18章13-37節

 

B.C722年、首都サマリアがアッシリア帝国によって陥落し、北イスラエル王国は滅亡しました。そしてさらに、列王記は南ユダ王国が滅亡へ至る歩みに筆を進めます。後代の歴史家は、とくにダビデの血統である南ユダ王国の滅亡に深い関心を寄せました。「契約を結ばれた主が、なぜダビデの家を滅びるままにされたのか」神さまとの交わりに入ったもの(義人)が、なぜ試練を味わうのか。救済の約束へ信頼を寄せるために、すべての信仰者にとっても重大な問いとなります。

1.南ユダ随一の善王ヒゼキヤを襲う試練

南ユダ王国の末期に差し掛かるこの時代、活躍した預言者として忘れることができない人がイザヤです。イザヤ書は分量でも全66章(新共同訳では110ページ分に相当)と預言書のなかで最大を誇ります。本書は伝統的にはイザヤ個人が書いたと信じられてきました。しかし書かれている預言の時代情景が著しく異なることや、「イザヤ」という個人名が40章以降には全く出てこないことなどから、イザヤ本人の預言は第39章までと言われます。そして列王記下18章から20章までと、イザヤ書第36章から39章までが、ほとんど同じ文章であることから、預言者イザヤはこの時代の行方を知るためには欠かすことが出来ません(略年表を参照)。 

略年表

722年 首都サマリアがアッシリア帝国に滅ぼされ、北イスラエル王国は滅亡する。領民たちは、メソポタミヤ周辺に「捕囚の民」として強制移住させられる。(王下第189-11節)

716年 ヒゼキヤ王が、南ユダ王国の王として即位する。(同第18章1節)

イザヤがエルサレムで預言活動を続ける。(イザヤ書第36章以降)

702年 ヒゼキヤ王、治世第14年目にアッシリア帝国が南ユダ王国に侵攻。ヒゼキヤ王は朝貢し、従属を誓う。(13節以降、同じくイザヤ書第36章~39) 

イザヤ書1:1に「これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世である」と記されているように、イザヤが最後に仕えた王がヒゼキヤ王でした。このヒゼキヤはダビデ以来の善王として絶賛されています。今日の箇所の直前には「彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い(王下18:3)」、また「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、彼の前にもなかった(同5節)」とあるように、ダビデの再来にして、南ユダ王国一番の善王として評価されています。

イザヤ書にも「見よ、正義によって一人の王が統治し、高官たちは、公平をもって支配する(イザヤ32:1)」と当時の時代を反映する預言も語られ、「銀の偶像と金の偶像を退ける(31:7)」とヒゼキヤ王が敢行した偶像破壊をもとにしたと思わせる言葉もあります。さらには「主がその鞭をもって打たれるとき、アッシリアは主の声のゆえにおののく(30:31)、アッシリアは倒れる(31:8)」と、攻め込んでくるアッシリアに対しても、その滅亡の預言がイザヤを通して語られていました。これらのイザヤの預言を聞きながらヒゼキヤは、ダビデのように主に信頼し、託された民を充分にヒゼキヤは牧したのでしょう。アッシリアに抵抗しながら、良い政治を行ったと思われます。

ところが、これほどの善王でありながら、大王センナケリブの猛攻の前には、なすすべもなく従属を誓わざるを得ませんでした。「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課されても、御意向に沿う覚悟をしています(14節)」。ヒゼキヤの宣誓の証しとして、神殿と宝物庫が払底するほどに銀と金を贈ることとなりました。民を守るための、苦渋の決断だったと思われます。

2.沈黙と信頼。試練の時に深まる主の約束

物品の欠乏と服従の屈辱だけではなく、さらなる苦難がヒゼキヤ王に、そして住民たちに負わされていきます。アッシリア王センナケリブの名代として派遣された役人ラブ・シャケは、ヒゼキヤ王の名誉をけなし、主なる神さまへの信仰を打ち崩そうと、声がとおる大通りから宣伝工作を行います。従属国の王への信頼と、宗教を攻撃することは、アッシリアの常套手段だったと言われます。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜ頼りないものに頼っているのか(19節)」と、彼らの母語アラム語ではなく、わざとヘブライ語で住民にも聞こえるように大声で語りかけます。

ラブ・シャケが「頼りないもの」といって軽蔑しているものは、一つにエジプトからの支援(21,23節)、もう一つは、主なる神さまへの信仰です(22,24節)。「おまえたちには、力も信仰もないではないか」と軽んじるのです。

エジプトからの支援は、たしかに当てにならないものですし、力をもってアッシリアに対抗することなどできなかったでしょう。さらにラブ・シャケはアッシリア帝国の裕福さもアピールし(31,32節)、ダビデ王家への信頼を失墜させようとします。このような侮辱の言葉を住民たちに聞かせたくないヒゼキヤの家臣は「ユダの言葉(ヘブライ語)で話さないでください(26節)」と懇願します。ユダの住民たちがアッシリアになびくことを心配したのでしょう。

しかし信仰を揺動させようとして語ったときに、ラブ・シャケは大いなる過ちを犯しました。「主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ(25節)」。ヒゼキヤの導きのもとに、ダビデの信仰と治世を偲び、ソロモンの神殿で礼拝をささげていたエルサレムの住民たちです。いわば信仰の深い養いを与えられていた信仰者です。「押し黙ってひと言も答えなかった」。36節の「王の戒め(ミツバー)」は、主の戒め、教えとも訳される言葉です。イザヤもアッシリアの滅亡と、王国の回復を預言していました。御言葉に聴きながら、試練の時には黙して信頼を堅くする信仰者の姿を見出します。

聖書は、信仰によって義とされた人が、試練も苦難もないままに、人生を平穏無事に過ごせるとは約束しません。時に苦難の時があり、何も語れない、沈黙をも与えます。しかし、それは決して、愛が伴わないものではありません。交わりは、沈黙し傾聴する時と、語る時が交互に訪れます。沈黙が続くこともあります。そのとき双方をつなぎとめるのは信頼です。主は決して御自分の契約にたいして不忠実ではありません。御心を現すために、沈黙を与えることもあるのです。

ご受難のとき、偽りの証人たちに囲まれ、「この男は神を冒涜した」と、信仰のないものたちが嘯くなか、イエス様は沈黙でお答えになりました。「『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』イエスは黙り続けておられた(マタイ26:62)」偽りの証人たちが、なにを語ろうとも、父なる神さまへの信頼を堅忍されたキリストご自身のお姿が、わたしたちの信仰の寄りどころとなってくださいます。

苦難の時に、イザヤを通してすでに語られていた回復の言葉が、エルサレムの住民たちの胸に響いていたのでしょう。「雄々しくあれ、恐るな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる(イザ35:4)」預言のとおり、苦難を受けてくださった主キリストが、救い主であり神です。黙しながらも信頼を寄せる民のもとにきてくださるお方です。

« 2019年10月20日主日礼拝説教 | トップページ | 2019年10月27日主日礼拝説教 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 2019年10月20日主日礼拝説教 | トップページ | 2019年10月27日主日礼拝説教 »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ