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2019年11月27日祈祷会 列王記下第23章

 

57年もの背信の世代(マナセ、アモン)が続いたのちに即位したヨシヤ王。彼は主の目にかなう善の王でした。神殿の建て直しに着手したところ「律法の書」の発見の知らせを受けます。この書のみ言葉を聞き、背信の世代の罪を嘆き、信仰の在り方を改めようと「心を尽くし、魂を尽くし(3)ます。「ヨシヤ王の宗教改革」とも呼ばれるこの出来事は、歴史家たちから「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった(25)と破格の評価を受けました。

ところが、その直後には「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった(26)と続き、しかもヨシヤ王をはじめ、多くの技術者たちが心血を注いで建て直した神殿を「忌み嫌う」とまで言われます。善王と評価を受けたヨシヤの信仰であっても、背信の罪は拭えなかったとも聞き取れるところ。「善王への評価」と「神殿への裁き」の緊張関係が示しているものを聞き取りたいと思います。

1.律法への徹底を貫くヨシヤ王の改革

 ヨシヤ王はさっそくユダ国内で徹底的な宗教改革を断行します。あらゆる偶像とそれに付帯する怪しげな習俗が、次々と破壊されていきます。これほど徹底的に偶像を破壊した王はいません。

また神殿では、エルサレムの全住民に王自らが発見された書物を朗読します。シナイの山でモーセを通して与えられた「律法の書」です。「律法義認」という言葉が否定的に語られることもありますが、律法の眼目は「人を罪より解放し、祝福の道を選ばせるため(申命記第6)」ものです。2節では「律法の書」から「契約の書」と呼び名が改められ、3節ではシェマー(申命6:4)の言葉がなぞられています。律法への傾聴が、神さまと人々の絆を堅く結びつけることを示しています。

けれどもヨシヤ王の改革は偶像崇拝の破壊のみにとどまりませんでした。地方の聖所も破壊します。「王はユダの町々から祭司をすべて呼び寄せ、ゲバからベエル・シェバに至るまでの祭司たちが香をたいていた聖なる高台を汚し、城門にあった聖なる高台をも取り壊した(8)この祭司たちは、偶像崇拝者ではなく、主なる神さまに仕える祭司たちです。「偶像崇拝者ではないのに破壊するのは行き過ぎではないか」と思われるところです。

「律法の書」に傾聴したヨシヤでした。徹底的な偶像破壊と中央聖所への集中は、申命記第12章を根拠にしたことがうかがえます。そこには偶像崇拝を徹底的に破壊するようにとの主の掟に合わせて「主の名を置くところが神の住まい」であることが記されています。「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい(申命12:5)これを読んだヨシヤは、ソロモンに「名を置く」と言われた場所エルサレムこそが「主の住まい」だと確信したのでしょう。

2.ヨシヤ王の改革と距離を置くエレミヤの預言

このように「全くモーセの律法に従って(25)歩んだヨシヤ王です。それなのに神さまは「神殿を忌み嫌う」と言われます。ここに、ヨシヤの熱心な信仰は愛されながらも、神殿に対しては裁きをおこなおうとされる主の新しい御心が示されているようなのです。単なる矛盾ではありません。

ヨシヤの改革にも関わらず、神殿礼拝が裁かれる理由を知るもう一つの手がかりが、同時代を生きた預言者エレミヤによって語られています。「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世第13年目のこと(エレ1:2)でした。エレミヤは、ヨシヤが21歳のときに預言者として召されました。「わたしは若者にすぎません(6)と若さゆえに恐れます。この二人は、もしかしたら同年齢か、すくなくとも同世代ではあったはずです。

ヨシヤの曽祖父ヒゼキヤ王の時は、イザヤは積極的に王に謁見し、主のみ言葉をつげていました。けれども対照的に、同年代のヨシヤ王とエレミヤが直接交わる個所は見受けられません。エレミヤはヨシヤ王の宗教改革とは、少し距離を置いている印象を受けます。とりわけ神殿礼拝に対するエレミヤが語る預言は厳しい響きをもっています。「主を礼拝するために、神殿の門を入っていくユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない(エレ7:4)ヨシヤ王は神殿こそが「主が名を置く」と言われた唯一の礼拝所だと信じていました。きっと「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と連呼しながら、宗教改革を断行したのでしょう。しかしエレミヤの預言によれば「主の神殿はむなしい」というのです。

3.神殿ではなく、心に名を置いてくださる主

預言者エレミヤを通して、神さまは新しい信仰の基準を示そうとされています。たしかに主の神殿の建設以来、そこでは心からの礼拝を献げられてきたこともありました。でも偶像が持ち込まれたり、建物が軽んじられ、修復もされずにほおっておかれたりと、人の信仰の在り方次第で、建物は毀誉褒貶を繰り返したのです。しかもエルサレム神殿が堕落するなかで、じつは地方聖所でも大切な礼拝が守られていたことが記されていました。「聖なる高台の祭司たちは、エルサレムの主の祭壇に上ることはなかったが、その兄弟たちにまじって酵母を入れないパンを食べた(9)「種入れぬパン」を食べること、これは過ぎ越しの祭りを思わせる集会です。地方聖所の祭司たちはその地の信仰者を交わり、過越祭を守っていたようなのです。21節にあるように、エルサレムで過ぎ越しの祭りを復興させるのであれば、地方聖所での過ぎ越しの祭りも破壊する必要はなかったかもしれません。大きな改革を断行するがあまり、破壊するばかりで、新しい信仰を建て上げるものとはなっていません。エルサレム神殿に集中するヨシヤが目指した改革は、古きを懐かしむ極端な復古主義に留まるものだったと言えます。

ヨシヤ王が善王として評価されたのは、背信の世代を悲しみ、立ち帰った信仰によるものです。その謙遜さと忠実さには、ヨシヤ王に並ぶ王はいませんでした。それでも神さまは、ただ古い信仰の在り方に戻るばかりではなく、新しい信仰へと成長する恵みを示されます。「神殿という場所さえあれば礼拝が献げられる」という浅い理解から、信仰者が心に主をお迎えすることで、霊とまことの礼拝が献げられるという真実への昇華です。

エレミヤはまさに、新しい契約を告げる預言者でした。「新しい契約を結ぶ日がくる。わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの民となり、彼らはわたしの民となる(エレ31:33)神殿での礼拝のみが救いだと声高に叫ばれるなか、イエスさまも弟子たちを「兄弟」と呼んで交わり、ささやかな過ぎ越しの食事を分かち合いました。そこで御自身の体が割かれる新しい契約を預言してくださいました。御言葉とともに、わたしたちは主をお迎えします。霊とまことを尽くす永遠の神の民へと「改革」されるために

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