2019年11月6日祈祷会 列王記下第20章
南ユダ王国随一の善王といわれたヒゼキヤ王(王下第18章1-7節)。センナケリブ王侵略の国難においても「主に堅く信頼し(18:6)」王国は救われました。ところが彼は死の病に倒れます。ヒゼキヤが死の床で延命を与えられる前半、後半はバビロンからの見舞客にまつわることが語られていました。そして延命したものの眠りにつくヒゼキヤ。15年の延命には、なにが語られているのでしょうか。
1.ヒゼキヤの信心ではなく、主の御心による回復
ヒゼキヤは25歳で即位し治世は29年間(18:1)でした。余命が15年伸びたことから、この病は彼が39歳の時の出来事となります。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください(3節)」涙を流しながら祈るヒゼキヤの言葉には、決して偽りや誇張する思いはないでしょう。治世14年目と言えばセンナケリブの侵略と同年(18:13)。発病はアッシリア軍敗走の前後なのです。
「干しいちじく」は古代オリエントでは、皮膚のはれものや潰瘍に効くと言われていました。アッシリアから攻撃を受けるなか、エルサレムは食糧難にも陥りました(18:27)。彼も満足な食事は出来なかったはずです。また神さまを汚す言葉に心は怒り、救いを求めて祈り続けた心労も重なったでしょう。この病は、神と民のために身も心も捧げたゆえのものだったのです。
壁に向かって泣きながら祈る姿は、神さまにのみ祈る「密室の祈り」の姿です。「ひたむきな」心に偽りなく、彼は主なる神さまと深く交わっていました。そこで帰りかけていたイザヤに神さまは言われます。「祈りを聞き、涙を見た(5節)」ので「寿命を15年延ばす(6節)」ことをヒゼキヤに告げるようにと命じます。
さて、神さまはヒゼキヤが善い行いをして、涙を見せて泣いたから祈りを聴くことになさったのでしょうか。神さまはまず、回復されたあとのヒゼキヤの信仰にまなざしを注ぎます。「見よ、わたしはあなたをいやし、三日目には主の神殿に上れるだろう(5節)」交わりを求められる神さまは、無為に健康を与えるわけではありません。命を永らえた感謝とともに、いっそう心から礼拝を献げる人になるよう新しくされるのです。ヒゼキヤの延命には、礼拝者がますます神さまと深く交わる希望が込められています。
さらにヒゼキヤの延命が、彼一人のためではなく「わたし自身のために、わが僕ダビデのために(6節)」と言われます。つまり契約に忠実な神さまが「御自分とダビデとの契約のためにヒゼキヤの命をとどめた」ということになります。そのことが後半のバビロンの見舞い客につながっていきます。
2.「しるし」を求めるほどにひたむきな心
さて後半の見舞客が来るまえに、ヒゼキヤが延命のしるしを求めているところが記されていました。「主がわたしをいやされ、わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしはなんでしょうか(8節)」これもヒゼキヤのひたむきな信頼が言わせた言葉でしょう。御言葉が語られた以上、なにか「しるし」があるのだろうと期待します。しかもヒゼキヤはその「しるし」について難しい方を選びます。
日時計は日が進めば影が伸びます。しかし彼は影が戻る方を選びました。人間の常識ではありえない方を敢えて選ぶのです。しかしこれこそ、ヒゼキヤが主にすべてを委ねていた証でしょう。主なる神さまは、日を支配される御方です。ヒゼキヤの願いが摂理を支配される主の御心とぴったり合っていたのです。これほどまでに神さまに信頼して、深く交われる信仰は幸いです。
3.摂理の業を超えた永遠の礼拝への招き
さて病床のヒゼキヤに、遠い国から見舞客が来ました。アッシリアよりもはるか東に出来たばかりの国バビロン。ヒゼキヤは延命が約束され、お見舞いということにも気を良くしていたのでしょう。気前よく客を歓迎し、持てるものすべてを披露しました。ところがイザヤはこの振る舞いを聴き、主の御言葉を告げます。それは、バビロンがやがて攻めてきて、披露したものも子孫も連れて行かれるとの預言でした。
バビロンがやがて大帝国となり、南ユダ王国を滅ぼし、捕囚として連れて行くことを知る人は、この見舞客に不気味なものを感じます。出来たばかりの小国バビロンは、西に版図を広げる機会を覗っていました。このお見舞いも、南ユダ王国の実力を偵察するための口実と考えられています。
ヒゼキヤはイザヤの預言をどこまで信じたのでしょうか。「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです(19節)」王国の滅亡を語られても、御言葉に感謝する信仰深い言葉として響くか、あるいはそんなことが起きるわけがないという楽観なのか、これは聴き方が分かれるところです。
いずれにしても、ここにヒゼキヤの15年の延命の御心が示されているように思えます。バビロン捕囚の発端となった見舞客。これこそ神さまが心に定められていたことでした。それは、さきほど触れた「わたし自身ため、わが僕ダビデのため」つまり御自分の契約に、まず御自分が忠実であるために起こされることだったのです。契約による救いの計画は、言い換えれば、いつまでも主なる神さまが人と共にいるための御業です。バビロン捕囚はダビデ契約がさらに新しくされ、イエス・キリストの契約に進むために通らなければならないものでした。ヒゼキヤ王の一人の延命を超えて、主の救いの御計画は確かに進められていくのです。
ヒゼキヤ王は15年延命したといえども、やはり生と死の摂理によって眠りについていきました。いわば新しい契約による救いの時を、待つ人となりました(ヘブライ11章)。まことの救いは、生と死の摂理を超えて、人が永遠に神さまと共におり、礼拝者とされることです。そのためにイエス・キリストの死と三日後の復活、そして昇天が定められていたのです。
ヒゼキヤは、迫りくる死から生へと命を戻されたことを体験しました。いわば復活の兆しにも与った人です。本章のイザヤ書における並行箇所は第38章。ここにヒゼキヤの病から癒やされた時の祈りが記されています。「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください(16節)」命を願い「陰府があなたに感謝することはなく、死があなたを賛美することはない(18節)」死を恐れます。「命あるものが、命ある者のみが今日の、わたしのようにあなたに感謝する(19節)」復活の感謝が語られ「主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿でわたしの音楽を共に奏でるでしょう(20節)」永遠の礼拝として生きる喜びが預言されます。
死の病から三日後に救われ、主の礼拝者として回復したヒゼキヤには、すでに復活に至る力が及んでいました。この祈りは、キリストの新しい契約に与る、全ての人の賛美とされていきます。「神が人と共に住み、人は神の民となる。彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示21:3-4)」永遠の礼拝者とされる喜びの預言を、わたしたちも告げていきましよう。主は新しい命の始まりへ、全ての魂を招いています。
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