2019年10月27日主日礼拝説教
聖書ルカによる福音書第18章1-8節
説教『それが今だとしても』 伝道師 三輪恵愛
祈り続けることの難しさがわたしたちの信仰を邪魔します。祈り続けなければならないことは重々承知しているはずなのに。言葉が出てきません。時間が取れません。心が騒ぎます。失敗すればがっかりして気を落とします。それはイエス様の弟子たちも同じでした。旅路のなかで教えられた「主の祈り」も言葉に出なくなってきたのではないでしょうか。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された(1節)」
たとえ話の裁判官はとんでもない人です。神も畏れず、人への思いやりもありません。でも、やもめにとっては唯一の頼れる人でした。正しさを認めてくれる権威を持っていました。だからひっきりなしにやってきます。とうとう「さんざんな目に遭わされる(原意:平手打ちを食らわされる)」と神を畏れない人が、やもめの平手打ちを怖がって裁判を開くという話です。
たとえ話の示すところは明らかです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる(7節)」気を落とさずに祈り続けるとき、神さまは「速やかに裁いてくださる」つまり、正しいことは正しいと、求める声にすぐに応えてくださるのです。
ただ、やもめのように厚かましく「正しさ」を求めていいのか戸惑います。けれども神さまから「あなたは正しい」と宣言されることを、むしろ求めるように聖書は伝えているのではないでしょうか。弟子たちは「御国が来ますように。御心がなりますように」と主の祈りを教わりました。神さまの正しさをわけてもらうためです。「主よ、どうか来てください」神の義を求め、祈り続けてよいのです。
「来てください。あなたの御名が我らの心を満たして、我らの唇にのぼるまでに。
しかもなお、あなたがどなたであるかを、我らには語ることも知ることもできません。
来てください、孤独な者に、唯一の御方として。
来てください。あなたがあなたであられるゆえに、その思いがわたしにあふれるのです。
来てください、うちひしがれた魂への慰め。
来てください、わたしの喜び、尽きぬ光。」
(ストゥディオスのシメオンの祈り)
イエス様は問いかけています。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見だすだろうか」主が再び来られるときが先か、地上の生涯を終えて天に召されるときが先か。たとえそれが今だとしても「主よ、来てください」とその日まで祈り続けます。主が、わたしたちの祈りに信仰を見つけてくださるからです!
【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】
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