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2019年10月30日祈祷会 列王記下第19章

 

センナケリブ大王の圧迫の前に、ヒゼキヤ王は多くの金銀を献げ従属を誓います。しかし大王が求めるものは従属ではなく併呑でした。名代のラブ・シャケは「降伏せよ」と敢えてヘブライ語で勧告します。さらに主なる神を軽んじ、ヒゼキヤ王を侮蔑する言葉が語ります。住民たちを徹底的にアッシリア王に屈服させようとします。信仰の危機に沈黙で応える住民たち。追い詰められたヒゼキヤ王の胸中が「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日 (3)との言葉に込められています。

1.御言葉の成就を信じながら、礼拝を捧げる

ヒゼキヤにとって、アッシリア人が語る神さまを軽んじる言葉は特に聞き捨てならないものだったでしょう。「生ける神をののしるために」「主はお聞きになったその言葉をとがめる(4)と、ラブ・シャケが語った愚弄がゆるせません。しかもその言葉が信仰者であるユダの人たちの耳に入ってしまったのです。「衣を裂き、粗布を身にまとう(1)悔恨の姿に、暴言を許してしまった責任を深く感じていることが覗えます。

しかし信仰の危機が迫るなかで、彼が執った態度はたいへん優れたものです。すぐさま主の神殿に行く、つまり礼拝を求めます。(1節)。そこで御言葉を告げる預言者を求めます(2節)。そして、執り成しの祈りを求めています(4節)。ヒゼキヤ王がどれほど理想的な信仰のもとに生きていたか、窺い知ることのできるものです。試練のときこそ、礼拝を捧げ、御言葉に聴き、自分では祈れない苦しみを、執り成して祈ってもらうのです。

このヒゼキヤの態度は主の御心に適ったものでした。「アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない(6)とイザヤはアッシリアを恐れることが無いようにと奨めます。イザヤはこれまで、アッシリアは恐るに足らず(イザヤ30:27以下)、またエジプトに頼る必要もないと預言を語ってきました(イザヤ31章)。その成就が近づいたのです。

預言の成就が近づくなかで「今はとても苦しい」と訴えるヒゼキヤの言葉が心に残ります。「胎児は産道に達したが、これを生み出す力がない(3)それにしても、陣痛を知らないはずのヒゼキヤがお産をたとえに用いるセンスに驚きます。

お産は新しい命が生まれる奇跡です。ある女性が胎内に命を得ます。期待は高まりますが、産道に達すれば、痛みが起きます。その苦痛は、期待や喜びを一時的に上回ることすらあります。しかしここで諦めてしまっては、母子ともに命がありません。新しい命が生じる直前は、最も危険な状態でもあるのです。

ヒゼキヤのたとえは、苦痛の強さというよりも、新しい命が生まれる直前のもっとも危ない状態に強調が置かれています。預言を聴き、成就への期待を抱きながらも、アッシリアへ徹底的な従属を迫られている信仰の危機をわきまえて、この喩えを用いているのです。危機的な状況においても、御言葉の成就を信じ、ヒゼキヤは礼拝を捧げます。

2.祈ってこそ示される、主のご計画

さて、クシュ(エチオピア)の王もアッシリアに反旗を翻したとの報せが届きました。南ユダ王国はその道すがらにあります。センナケリブが率いるアッシリア軍本隊の矛先が向いてきました。

降伏勧告の手紙を受け取ったヒゼキヤは、再び主の神殿に向かい、今度は自らが祈ります。イザヤに執り成しの祈りを願っていたヒゼキヤでしたが、さらに自ら主の前で祈る信仰へと導かれています。「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください(19)近づいてくる危機、命を苛むもの、頼りにできるものがもはや地上にないことを知った魂は、懸命に祈ります。もはや頼れる存在がこの御方しかいないからです。

イザヤは、すべてを委ねたヒゼキヤの祈りが聞かれたことを宣言します。「アッシリアの王センナケリブのことであなたがわたしにささげた祈りをわたしは聞いた(20)そして、主はアッシリア王への審判を語られます。

 ヒゼキヤへの熱心な祈りが主なる神さまに聞き入れられた出来事は、絶えず祈りを献げることの大切さを知らされます。また祈りが聞かれることの希望も与えられます。もちろん、これはヒゼキヤの熱心な努力が、神さまの御心を動かしたわけではありません。人が神を操ることはできません。しかし神さまの御心、すなわちご計画への理解を求め、そこに自分が生きることは祈りよってなされることです。

アッシリアを滅ぼして、ヒゼキヤ王と南ユダ王国の住民を救い出すことは、すでに定められていたことでした。「はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いていたことを、わたしは今実現させた(25)神さまの救いのご計画がすでに定められていたということを、聖書は他のところでも語ります(エレ29:10以下)。 

ただ、それは「神さまはぜんぶ計画をしているのだから、祈っても祈らなくても御心はなるのだ」という無関心をもたらすものではありません。むしろその逆です。祈らなければ、なにが御心なのかわかりません。ヒゼキヤのように、命の危機に接するほどの苦しみを味わい、真剣に祈ればこそ、ヒゼキヤには「御言葉は成就する」との御心(計画)が示されたのです。

3.御言葉を信じる残りの民は新しくされる

しかもイザヤを通して語る御言葉のなかには、神さまもまたヒゼキヤと共に苦しみをともにしていたことが示されています。「お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ、高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか(22)ラブ・シャケの口を通して語らせたアッシリア王の言葉は、神のご栄光を損なうものでした。ヒゼキヤがもっとも苦しんだ、主なる御方のご栄光が汚される信仰の危機を、主ご自身も共に負われていたのです。

主はご自身の計画によって救い出し、契約を結んだ民と共にいる御方です。共に苦しんだヒゼキヤとその民に向けて回復が語られます。「エルサレムから残った者が、シオンの山から難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される(31)

ヒゼキヤをはじめユダの人たちにとっては、イザヤを通して語られていた御言葉が、与えられた新しい命でした。期待しながら成就を待ちますが、お産の直前のように、期待を上回る苦痛は信仰をかき消そうとします。最後まで成就を信じて耐え忍んだ残りの民が、信仰という名の新しい命を得ることとなりました。

「残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ(30)神の国に生きる民が耐え忍ぶ時にこそ祈りを献げました。ヒゼキヤが先頭に立って祈りを捧げていくなかで、救いのご計画が成し遂げられていったのです。その通り、もっとも危ない信仰の危機を脱したあとに、耐え忍んだ残りの民には、いっそう神の国に根を降ろして、豊かな信仰の実りを得ることが約束されています。

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