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2019年12月4日祈祷会 列王記下第24章

 

「バビロンの王ネブカドネツァル」の到来に、いよいよ南ユダ王国の終焉の時が迫っていることを感じます。バビロン帝国がアッシリアを滅ぼし大帝国を築きあげた後のことです(BC612:ヨヤキム王の治世年間)。善王ヒゼキヤに見舞いの使者を送った頃のバビロンは、メソポタミヤの小さな国に過ぎませんでした(列王記下第20)。けれども小国ゆえの領土的野心は、その頃から虎視眈々と南ユダ王国を狙っていました。少なくとも二度以上は行われたバビロン帝国によるユダ王国の捕囚。本章は1回目の捕囚の様子を伝えます(BC597)。まことに厳しい主の裁きです。信じる民の心を打ち砕きます。そして、残された民を再び御言葉に聴く民へ、新しく導こうとされておられます。

1.御言葉に聞かず、かき消すことがすでに裁き

 宗教改革を断行したヨシヤ王の後に、三人の王が南ユダ王国を支配しました。ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキンは三人とも「主の目に悪とされる(23:32,37,24:9)と同じ言葉で評価されています。立て続けに背信の世代が続いたことも、南ユダ王国の滅びを招いた一因です。ただしこの三代の政権は順に3ヶ月、11年、3ヶ月と短命でした。マナセの55年には遠く及びません。じつに御言葉のなかにも、南ユダ王国滅亡を決定的なものにしたのはマナセの背信でだと伝えています。「ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナエの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった(3,4)。またバビロンの侵攻に先立って、いくつかの異邦人も攻め込んでいます。これらの外寇についても「主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた(2)とあります。ユダ王国の滅亡はマナセの背信への裁きであり「赦さない」とはっきり語られるのです。畏れを感じます。神さまが赦してくださらなければ、いったい罪をどう悔い改めればならないのでしょうか。しっかり聞き取るべきところだと思います。

 まなざしを向けたいところは、「預言者たちによってお告げになったように」と預言者の言葉が主の裁きとして成就していること。また「罪のないものたちの血が流された」と主を信じる人達への迫害が起こされていたことです。マナセが55年間もの背信の時代のなかで犯した罪は、偶像崇拝だけではなく、御言葉を語り、聴く正しい人たちへの迫害でした(王下16)。ユダヤの伝承によれば、マナセの時代にイザヤは、体を引き裂かれるという酷い仕打ちで命を落としたとも言われます。

預言者の血が流されることがどれほど赦し難いものか、イエスさまも律法学者、ファリサイ派を相手にして語っておられます。「神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はそのなかにある者を殺し、ある者を迫害する』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる(ルカ11:49,50)

主なる神さまが、なぜ預言者を選び遣わし、御言葉を語らせるのか。それは民を義によって裁き、魂を打ち砕き、礼拝する共同体へと導くためです。すべては神さまの御言葉によって起こされる出来事です。ですから、その言葉に耳を傾けず、その声を消し去ることは、すでにそれが裁きです。御言葉を退けることは、命を退けること。その恐ろしさを、心に留めておきたいところです。

2.低きところからいと高き御方に選ばれる奇跡

 こうしてマナセの重い罪の影が、首都エルサレムにも及ぶこととなりました。ヨヤキムの息子、ヨヤキンが即位した時、バビロンはエルサレムに至り、瞬く間に包囲されます。王を筆頭に、王母、重臣、また有能な技術者たちがバビロンの帝都に捕虜として連行されることとなりました。ヨヤキム王はたしかに主の目に悪とされた王です。ただ、先祖であるマナセの引き起こした罪を、その子孫が捕囚となって負っていることに心が騒ぎます。

バビロン帝国も、アッシリアと同じく、滅ぼした国が二度と抵抗できないように、敗北民を強制移住させました。しかもバビロンは、優秀な人材のみを本国に送り、自国の繁栄のために働かせます。合理的な捕囚政策がこの国の繁栄の基礎を築きました。選ばれた人達は、王族、政治家、勇士、職人と人の目に「優れている」と判断された人々でした。そして国に残されたのは「ただ国の民の中の貧しい者だけであった(14)と、ユダ本国は貧しい人々だけが残されていきました。囚われの身となって、異国の繁栄のために働かされる人々。一方で、故国に残される貧しい人々。能力の優劣を基準にした、人間的な選びがここでなされています。けれどもこの人間的選びを超えて、主なる神さまの尊い選びが示されていると思うのです。

この時代の預言者たちは、ユダ王国の滅亡という大きな出来事を目撃しながら、御言葉を遺しました。エレミヤ書は捕囚の民についてこのように語ります。「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア(バビロン)人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰ってくる(エレ24:5-7)。連れていかれた人々は、捕囚という苦難を通して、心によって神を知る人とされていきます。

では、残された民はどうなるのでしょうか。同じく、この時代の預言者ゼファニヤはこう語ります。「わたしはお前のなかに苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、養われて憩い、彼らを脅かす者はない(ゼファ3:12-13)残された民も、苦しみに置かれながら、そこで「主の名を避け所とする」つまり、主の名が置かれたところに魂の慰めを知る民にされていきます。

捕囚の人々は、優秀ゆえに異国で低められました。けれどもそこで、心によって主なる神さまを知る人となりました。残された貧しい人々も苦しみますが、そこで主なる神さまを避け所とする信仰を得ました。人間の価値観による選びを凌駕しています。低められたところから、いと高き方の御名前を呼び、心を高く挙げる信仰が与えられています。捕囚によって示される神の義です。

御言葉を聴き「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう(ルカ1:45)エリサベトは高らかに言いました。救いに選ばれる奇跡は、地上から天上へと目をあげさせます。マリアは誉め讃えます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう(47,48)低きに降られた主が、砕かれた魂に近寄って慰め、讃美を挙げさせてくださいます。抗えない尊い選びです

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