« 2019年12月24日キャンドルサービス説教 | トップページ | 2019年12月29日主日礼拝説教 »

歴代誌上第12章(20191225)

前回、歴代誌の読み初めにあたり、著者が誰であったか、そして書かれた目的はなんであったか、少しご紹介しました。歴代誌は古くよりエズラ書と一続きの書物として扱われ、エズラが書いたものと考えられいます。バビロンからの帰還民を指導したエズラ。やっと帰って来た時、エルサレムは廃墟となっていました。エズラは廃墟のエルサレム神殿を建て直し、礼拝を再興させる務めに召されました。捕囚から帰還した民の献身により、神殿は再建されていきます(第二神殿)


1.礼拝から真心が失われた時代に向けて


そのエズラが、アダムの系図にまで遡って歴史を再編さんしたのは、イスラエルが、主なる神さまを愛し、平和な関係を築くために選ばれた民族だという起源を明らかにするためだといえます。そのまなざしで著された歴代誌です。あらゆるところに、礼拝する民が起こされていく神さまの御業に焦点がおかれています。


 それにしてもエズラがどうしてそこまで、イスラエルの起源を書き起こす必要に迫られたのでしょうか。神殿を再建したのであれば、過去の歴史の記録は列王記に任せて、将来に目を向けて礼拝を捧げていけばいいとも思えるからです。


 ところが捕囚後のエルサレムでは、再建したはずの神殿で捧げられる礼拝が形式上のものに陥っていくという問題が生じてしまいました。そのことを詳しく語っているのが、エズラと同時期の出来事をもとに記されたマラキ書です。マラキ書の第2章は、とくに祭司の一族が礼拝を形式のものに堕落させてしまった罪が糾弾されています。


 「レビと結んだわが契約は命と平和のためであり、わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり、彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見出されなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせた(マラキ2:5-7)


 これは祭司の家系であるレビ一族に任された務めを語ったものです。神と人の和解を示す平和の契約に彼らは仕え、神と人の交わりをただすという点において、祭司が語る真理のみ言葉に偽りはありませんでした。そのみ言葉は多くの人を神との平和の関係に立ち帰らせました。


 ところが、神殿再建の頃の祭司の一族はこのようになっていました。「だが、あなたたたちは道を踏み外し、教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまったと万軍の主は言われる(8)そして同書は、神と人の平和をとりなすという祭司の役割が果たされず、形だけの礼拝に対する戒めが語られています。


 このような事態を憂うエズラゆえに、歴代誌を著して、とくに礼拝に携わる人たちの心を立ち帰らせる役目を与えられました。先祖たちが、どのような思いで神さまに仕え、エルサレムの神殿の建設に向けて命を献じていったかを示したかったのです。


2.神さまとの平和のためにダビデを助ける人々


 さて、歴代誌上第12章はサウルに追われていたころのダビデの試練に、少し時間が遡っています。サムエル記上第2729章に重なるこの箇所は、ダビデがサウルから逃げるため、もはやイスラエルにはとどまることができず、ペリシテの領内にまで逃げ込んだときの頃です。幸いペリシテの領主の一人アキシュに見込まれ、ティクラグという土地を与えられていました。


 けれどもまだ弱小のダビデ。しかもアキシュは信用しているとはいえ、ペリシテの王たちはダビデを警戒しています。イスラエルにもペリシテにも安住の土地を見出せない、このころのダビデの心細さはどれほど苦しいものだったでしょう。


 それなのに、ダビデのもとには続々と勇士たちがはせ参じてきます。サウルの出身ベニヤミン族からすら、ダビデのもとに人が集まるのです。そのなかで、勇士アマサイとダビデとの対話は、ダビデのもとにはせ参じてきた勇士たちの心を代弁するものです。


 恐れるダビデは言います。「あなたたちが平和を望んでわたしを助けようとして来たのなら、わたしもあなたたちと心を一つにしよう。しかし、もしわたしを欺いて、敵に引き渡すつもりなら、わたしたちの先祖の神がそれを見て、責め立ててくださるように。わたしはこの手でどんな不法も働いたことがないのだから(18)


  このダビデの姿と言葉が、アマサイに深い霊の注ぎを促しました。「ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者(19)このアマサイの言葉に連呼される平和こそ、ダビデが求め、またダビデを助けようとする勇士たちが、心より望んでいたもの、神さまとの平和な関係、すなわち義です。


 ここに、わたしたちが平素用いる「平和」と、聖書がキリストのお姿で示す平和の違いが示されているように思えます。劣勢に陥ったダビデ、それでも彼のもとに勇士たちがはせ参じたのは、ダビデこそが神さまとの平和を追い求める人であり、この人がまことの礼拝の基を築くと信じたからこそです。またサムエル記は、ダビデの個人的な人格や信仰的態度を称揚する向きもありますが、歴代誌の客観的な記述は、ダビデも一人の礼拝者であり、助けるものたちとの立場はそれほど変わらないという公平さが特徴です。ここではむしろ劣勢のダビデを助け、平和を求めるアマサイの信仰にまなざしを注いでいるといえるでしょう。


3.満たされていくことで保たれる主の平和


さらに続くダビデの勇士たちは、ついにイスラエルの全部族からの大集合となっていきます。それぞれが華々しい戦歴や賜物に秀でています。そこに加えて、レビ一族の記載も残っているところには、神殿再建のときに礼拝への熱意を失いかけていたレビの子孫たちにも、励ましを与えたことでしょう。


 こうしてダビデのもとに神さまとの平和の交わりを求め、それを子孫たちに残していくことを心より願う人々が集まりました。最後のところは、ダビデのもとに集まった人々の祝いの祝宴を記します。彼らは「全き心をもってヘブロンに」集まりました。じつにこの「全き心」が元の言葉では「シャレーム・レバブ(満たされた心)であり、あの平和と訳されるシャロームと同じ言葉なのです。つまり、神さまとの交わりを回復し、満たされた人々はともに相和し、互いに全き人間として回復に与ります。礼拝は、その姿がすでに先取りされているのです。


 最後に彼らが食卓を囲んでいる姿も、教会での営みを思い起こさせるものです。主の犠牲に胸を打たれながらも、そうして満たされて神さまとの和解を回復した群れが、「全き心」にされる幸いです。この一年もどれほど主なる神さまの憐れみ、慰めに満たされたことでしょうか。ますますわたしたちは神さまの似姿を、この愛する祈りの家で、満たされていくことになるでしょう。



« 2019年12月24日キャンドルサービス説教 | トップページ | 2019年12月29日主日礼拝説教 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 2019年12月24日キャンドルサービス説教 | トップページ | 2019年12月29日主日礼拝説教 »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ