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2019年12月11日祈祷会 列王記下第25章

 

ダビデの最晩年から始まる列王記の、最後の章に至りました。ソロモンの後に南北に分裂したイスラエル。それぞれの王朝に立てられた王たちは、さまざまな信仰の在り方を示します。北は20人、南は19人、合わせて39人の王たちが「ダビデ王に倣って主の道を歩み」、あるいは「主の目に悪とされることをことごとく行い」ました。金の子牛礼拝を復活させたヤロブアム一世。女王イゼベルと共にバアル礼拝に熱中し、エリヤを迫害したアハブ。エリシャに従ってバアル礼拝を駆逐したイエフ。イザヤに導かれた善王ヒゼキヤ。宗教改革を断行したヨシヤ。み言葉に聞く王、背を向ける王。預言者を迫害する王、親しむ王。王たちの姿をとおして、神さまが求めておられる信仰者の輪郭が露わにされていくかのようです。

このように列王記は王たちの姿を用いて、救いのご計画を示します。救いの恵みを知るには、欠けているところが明らかにされなければなりません。バビロン捕囚とエルサレムの滅亡も、そのために起こされた大切な出来事の一つと言えるでしょう。それは欠けを知らされる苦痛を超えたところで出会う、救い主を示すためでもあるのです。

1.裁きにすら信頼をおくときに示される恵み

南ユダ王国の最後の王ゼデキヤは、第一次捕囚ではバビロンに行かずに済んだ王族でした。バビロンの傀儡として王に据えられます。けれどもゼデキヤは野心を捨てきれません。機会を窺って反旗を翻します。しかしバビロンによる捕囚は、主なる神さまの御心によるものでした。この時代、み言葉を取り次いだ預言者エレミヤは、バビロンからの責め苦を受けいれ、捕囚先で落ち着くようにと再三にわたって預言していました。

1~3節に至るゼデキヤの反抗は簡潔に記されていますが、エレミヤ書の第38章が様子を詳しく伝えています。攻め寄せるバビロンに対してどのように対処すればよいか、ゼデキヤはエレミヤにみ言葉を求めます。「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」と言った。対するエレミヤの答えはこうでした。「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない(エレ38:14-18)エレミヤは「バビロンからの責め苦は御心なのだから、受け入れて救いを得なさい」というのです。けれどもゼデキヤはこの主のみ言葉に信頼することができませんでした。夜陰に乗じて逃げるところを捕縛されます。

エレミヤはユダ王国滅亡を目撃した預言者です。彼は一貫して裁きへの信頼を伝えました。彼の預言によれば、バビロンの王も裁きのために主が遣わした人です。エレミヤ書のなかで、ネブカドネザルは「わたし()の僕(エレ25:9)と語られます。

裁きを信頼することは、たしかに難しいことかもしれません。けれどもまことの救いに至るには、欠けているところ、満たされないところを知らされることは避けられません。欠けを知り、魂を打ち砕かれてこそ、救いの恵みを知らされるのです。

2.欠け多き王たちの姿すらも用いる神さま

結局ゼデキヤは、王子たちの死が肉眼で見る最後の光景にされる、とても惨い仕打ちを受けて、バビロンに引かれていきました。神殿も家屋も、都エルサレムに残るものは、すべて拭い去られました。このときのバビロン捕囚は、第一次と区別して、第二次バビロン捕囚(BC587年)とも呼ばれています。

これほどの惨い仕打ちをするバビロン王のネブカドネザルですが、さきほど触れたように、預言の言葉は彼を「神の僕」とはっきり語ります。そこに主なる神さまが成し遂げられる救いの御業のためには、あらゆる人も、物も「万事が益となって働く(ローマ8:28)真理が示されています。

異教の王が、神さまに用いられるということで言えば、まず思いつくのはファラオです。「主がファラオの心をかたくなにされたので(出14:8)」彼はなかなかイスラエルと自由の身にはしませんでした。けれどもファラオの頑なさを通して、イスラエルは神のもとの自由へと歩んでいきます。イエスさまがお生まれになったとき、ヘロデ王の命令によって二歳以下の男子が殺害されました。とても惨いことですが、地上の権力者がどれほど霊的な指導者を恐れているか、民衆を惨い仕打ちに合わせるか、権力の闇を示します。そしてポンティオ・ピラト。イエスさまを釈放する権力を持ちながら、保身のゆえに行使できませんでした。総督という地位がかえって彼を頑なに縛り上げています。このピラトの不自由が、人を罪から解放するイエス・キリストを死に引き渡します。彼の頑なさが救いの権威のために用いられています。

これらの王たちの欠けのある姿も、神さまの遠大なるご計画に用いられているのです。イスラエルの王たちの姿も同様です。彼らの欠けのある姿は「信仰の反面教師」にとどまりません。欠けを満たしてくださるまことの人、イエス・キリストを示すための、大切な一片なのです。

3.神の似姿を回復させられていく救いへ

このように厳しい裁きを記しながら、かすかに始まる救いの兆しをとどめて列王記は閉じられていきます。列王記の最後のところでは、歳月が37年も流れ、第一次捕囚で連行されていたヨヤキン王が息災であることが記されていました。「バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちのなかで彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ(28,29)と、厚遇されています。エレミヤ書には、バビロンに服し、その裁きを受け取ったものは「良いいちじく」として祝福されるというみ言葉がありました(24章)。また「連れていかれたところで、落ち着いて暮らしなさい」というものもあります(29章)。み言葉に信頼した人への祝福がここに証されています。そして、このヨヤキン(またの名をエコンヤ)王には、ダビデの血筋が残されることとなりました。ヨヤキンからさらに世代はつながりやがてイエス・キリストへ、系図は続いていきます(マタイ1:11)。

み言葉に信頼して生きる人に、主は必ず欠けを示されます。あの王たちのように、主の御前に歩むとき、それは必ず照らし出されるものです。それは、イエス・キリストによって満たされるところを示すためなのです。「人が神になるのではなく、神が人となることで、神の形を失った人が姿を回復させられていく救い(イーヴァント)」。イエス・キリストが来られたのは「民を救うため(ヤーシャー)(マタイ1:21)。人の力だけでは決して満たされることのない神の似姿を、人の罪を負う姿を通して満たしてくださるお方を祝うクリスマスが近づいています。

「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見出されない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである(エレミヤ50:20)

欠けを示されてなお、み言葉に信頼しつくす人の魂を主なる神さまは慰め、最後まで守り通してくださいます。

 

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コメント

突然申し訳ありません、匿名で質問させて頂くことをどうかお許し下さい。以下の「人が神になるのではなく、神が人となることで、神の形を失った人が姿を回復させられていく救い(イーヴァント)」の言葉がイーヴァントのどの著書が出典かをお教え頂ければ幸いです。イーヴァントの著書は絶版のものもありますので、入手が難しく全ての著書に目を通すとなると、三輪恵愛先生のような専門家ではない私にとってはとても困難です。ご多忙の中大変恐縮ですが、お時間がある時にどうかお答え頂ければと思っております。

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