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2019年12月18日祈祷会 歴代誌上第11章

 

列王記を読み終え、今日から歴代誌に入っていきます。内容に入る前に、この2つの書物の「つなぎめ」に目を通しておきたいと思いました。というのも歴代誌が列王記の後に置かれているところに、ただ歴史をあらためて振り返っているのではない、別の視点が注がれているからです。

1.神殿再建に尽力したエズラによる書物

歴代誌を読み進めますと、まずアダムから始まる長々とした系図が続きます。その系図は、いったんバビロン捕囚まで続きます(1~9)。そして9章からは、すでにサムエル記で読んできたサウル王の即位とギルボア山での戦死の事件から、イスラエルの歴史を記していきます。

 バビロン捕囚で終わる列王記まで読み進めたうえで、あらためてアダムから始まる系図、そしてサウル王からはじまるイスラエル王国の歴史に足を踏み入れますと「列王記と重複しているのでは?」との印象も持つかもしれません。まるでイスラエルの歴史の「総集編」のようにも思えます。

けれども歴代誌は、アダム以来のイスラエルの歴史を、総まとめに終わらせるようなインパクトに欠ける書物ではありません。それどころか、同じイスラエルの歴史を題材にしながらも、まったく異なる視点で綴っています。それはあたかも新約聖書で四つの福音書がそれぞれにイエスさまのお姿を示しているところにも重なります。歴代誌を記した著者にも、神さまの御業を目の当たりにし、あるいは聞き取り、信仰をもって歴史を語りなおす明確な目的がありました。

列王記が多くの「顔のない編集者」によってまとめ上げられたのとは異なり、歴代誌は一人の著者、エズラ記の作者でもあるエズラによって記されたと伝えられています。確証は相当強固です。まずユダヤ教の書物『タルムード』は歴代誌がエズラによるものと記します。また歴代誌の最後の数行が、エズラ記の最後の数行とまったく同じ言葉です。そして伝統的に歴代誌は、一冊の聖書にまとめられるまで、エズラ記と同一のシリーズとして常に一緒にいたことが指摘されています。

2.神殿再建に携わりながら、創建の歴史を編む

さらに歴代誌が注目している焦点も、これらの強固な外的証拠と同様に、歴代誌がエズラによって記されたことを支持します。

大帝国バビロンも、新しく興されたペルシャ帝国に滅ぼされ、BC538年にバビロンからの帰還が始まりました。エズラはBC460年頃、エルサレムに帰還し、ネヘミヤらと力を合わせて神殿再建と神礼拝の復興に命を献げます。

エズラの神殿再建へ懸ける思いは、同じころに記した歴代誌の中心点に色濃く反映されていると言えます。なぜならば、歴代誌に出てくる主だった人物たちも、皆、神殿建設について、あるいは神殿での礼拝について、どのような姿勢を持っていたか、ということが問われているからです。

歴代誌の1~9章には連綿とした系図の記述が続きます。でも読み進めると、アダムからの系図をバビロン捕囚まで記すなかで字数を割く部族は公平ではありません。主にユダ族、ベニヤミン族、そしてレビ族について多く語られています。先の二つはダビデとサウルのそれぞれの出身部族であり、南ユダ王国を形成する部族でもあります。またレビ族は神殿での礼拝のために、南王国で引き続き重用されました。系図の羅列のなかにも神殿建設を行う王の血筋と、祭司の家系を重んじる、神殿建築に向けた主の備えに注目していることがわかります。

3.神殿建築の備えとしてみるダビデの悔改め

10章では、サウル王のギルボア山での自決の場面から、すぐにダビデの油注ぎと即位の場面が語られます。いささか唐突な印象も受けます。あれほどサムエル記で丁寧に語られていたサウルとダビデの確執もほとんど記されません。著者は、神殿建設にかかわりのないことには極力字数を用いないようにしています。

けれどもダビデのなかにある、私的な思いをとどめている個所もあります。26節以降のダビデお抱えの勇士たちの名簿の中に、ダビデの私心から罠にかけられ、命を落とした義人の名が残っています。「ヘト人ウリヤ(41節)」あの美しいバト・シェバの前夫です。

そんなダビデが、対ペリシテ戦でも自分の勝手な思いから勇士たちを危険な目に合わせたことが記されています。「水を飲ませてくれる者があればよいのに(17節)」部下たちが必死で戦っているにも関わらず、彼は私心を口にします。すると三人の抜群な働きをする勇士が、敵中を突破して水を持って帰ってきました。三勇士の命を懸けた働きがダビデの目を覚まします。「ダビデはこの水を飲むことを望まず、注いで主にささげ、こう言った。『わが神よ、わたしはこのようなことを決してすべきではありません。彼らは命をかけて持ってきてくれたのです。彼らの命のかかった血を、わたしは飲むことができましょうか(18,19節)』」

この行為を見て無意味なことと思われるでしょうか。けれども三勇士が決然と敵中に突っ込んでいったのは、ダビデがのイスラエルをまとめ上げ、エルサレムに向かう導き手であったからこそのこと。三勇士は主なる神に仕える思いでダビデのために水を汲んだのでした。ですから、ダビデが悔い改め、その水を主にささげたならば、三勇士の行いも決して無駄ではありません。主にささげられたものが御心のままに用いられたのです。「命をかけて行われた働き」を主に献げた三人の姿がダビデに畏れをいだかせ、悔い改めに導きました。エルサレムの神殿建設を熱望する人たちが、すべてを主に献げ、お互いに仕えている姿です。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会のなかにいろいろな人をお立てになりました(一コリント12:26,27)」わたしたちも様々な賜物をもって、それぞれの仕方で主に仕えます。なかには切実な求めに応じるようにして、その不足を補うこともあるでしょう。ダビデが深い悔い改めとともに語った通り、それは「主に献げられたもの、命をかけて手に入れたもの」です。

三勇士のように命を顧みない立派な行いばかりではありません。わたしたちは目に見えるものを誉め、小さなものを見落としてしまいます。けれども、教会を建て上げるなかで献げられたすべてのものは、行いの大小に関わらず主なる神さまのために献げたものだということを、感謝をもって覚えなおしたいと思います。

教会の基には、イエス・キリストの尊い血潮が振りかけられています。「彼らの命のかかった血をわたしが飲むことができましょうか」とダビデは言いました。わたしたちはそのイエスさまの命を飲んで、一つの群れとされていきます。

「わたしの命を受けなさい」と言ってくださったお方ですから、命をかけて献げたものはすべて受けてくださいます。主が命をかけてわたしたちの切望する思いのために、死という敵中を十字架をもって突破してくださいました。すべての魂のために仕えてくださったイエスさまが、土台となってわたしたちを組み上げてくださるのです。

 

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