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2020年1月29日祈祷会(歴代誌上第16章)

ダビデの先祖たちがエジプトから解放され、シナイ山ではじめて礼拝をささげた時、神さまは彼らにこう語り掛けました。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エ19:6)そこでモーセの手に律法が手渡され、箱の中に納められることとなりました。これは「契約によって神の民とされた人は二度と罪の虜にはしない」との神さまの宣言です。この時以来、イスラエルの共同体は神の箱とともに歩んできました。けれどもサウルの頃に神の箱が奪われて以来(サム上4章)、これを中心に礼拝をささげる機会が失われていたのです。つまり神さまとの交わりを確かめる機会が失われていたことになります。日常でも交わりを確かめる機会が薄れ、人間関係が保たれているかわからなくなった時、不安になるものです。これまでイスラエルの民は、神さまとの交わりが不確かなままで歩んできたのでした。


1.喜びだけではなく、務めも分かち合うダビデ


ですから念願の神の箱を迎え、礼拝が献げられたことは、神さまとの交わりが元通りになった喜びあふれる出来事でした。前章で楽隊を組織して、神の箱を担ぎながら行進をしてきたダビデたち。いよいよみ言葉を中心に置いて礼拝を始めます。


ところでダビデが一人の純粋な信仰者でもあった証は、前章の喜び躍る姿にも表れていました。王の威厳もかまわず躍る姿は、妻ミカルの軽蔑を誘うものでした。


たしかにミカルの軽蔑は、喜びを共にすることができない冷たさと、神さまの御前にへりくだることのできない石のような心を伝えます。けれども、ダビデにしてもいつまでも一信仰者として喜びの先頭に立つばかりでは、それはまた礼拝のよい導きになりません。そこで彼は、自分の喜びのためばかりではなく、神の箱を安置するために労した人たちとの分かち合いを忘れません。「ダビデは主の御名によって民を祝福し、イスラエル人のすべてに、男にも女にも、パン一個となつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた(3)ダビデたちの声は記されていませんが、共に礼拝をする人たちと喜びを分かち合う姿が目に映るようです。放蕩息子の譬えでは、失われていた息子が戻ってきたとき、父親は「肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう(ルカ15:23)と喜びを分かち合いました。喜びを分かち合うことで共同体は一つであることを確かめます。


さらにダビデは、喜びだけでなく奉仕の業をも分かち合っています。「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した[ナーターン:与えた](7)と、彼がこれまで担っていた讃美のリードを、後継者たちに引き継いでいます。讃美の喜びは、神さまの礼拝にお仕えしたという実感があってこそ実りとなります。ダビデが先頭をきって踊っているばかりでは、群れ全体の喜びとはならなかったでしょう。群れ全体を礼拝者へと導こうとするダビデの、指導者ぶりがうかがえるところです。


2.共に神さまの救いの御業を思い起こす


こうしてアサフたちのリードではじまった讃美は詩編96編、106編、105編に納められています。なんと詩編の歌声はダビデたちの礼拝にまで遡ります。行間が空いているところを目印にそれぞれの節群の主題を追っていきますと、8-13節は「礼拝への招き」、14-18は「契約」、19-22は「契約の説き明かし」、23-27は「全地に向けた派遣」、28-36は「イスラエルの民以外の人々、異邦人への立ち帰りの呼びかけ」となっています。その構造を試みに「招き➡朗読➡説き明かし➡派遣➡伝道」とすると、今のわたしたちの礼拝式順にも重なるところがあります。 


ここで特に目を止めておきたいところは、「驚くべき御業をことごとく歌え(9)」「とこしえの契約を心に留めよ(15)と、「神さまがどのように契約を結び、共同体を救ってくださったか、歌声にこめて思い出しなさい」と導いているところです。神さまの救いを繰り返し思い出しなさいということです。キリスト教はしばしば「思い起こす宗教」と説明されます。ギリシャ語の「アナムネーシス」という言葉は「記念」と訳され、最後の晩餐の時にもイエスさまがお使いになりました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい(ルカ22:19)パンが裂かれ、ぶどうの液が飲みまわされるたびに、主の贖いの十字架を、共に思い出すことをイエスさまは望まれました。


「どのように救われたか」ということについては、まず個人的な回心の体験が先立つかもしれません。けれども信仰はさらにその先へと促されます。ダビデが赦しの喜びを分かち合ったように、信仰共同体は「救われて一つの体とされた」というところまで至るのです。そこには、共同体全体で贖いの事実を分かち合うということも求められます。詩編の歌声をともにしながら、神さまの御業を言い表す言葉を共有することが、こうしてダビデたちの原初の礼拝にすでに行われていたことを覚えてたいと思います。


3.礼拝の奉仕を通してシャロームが示される


37節からは礼拝の後のことが記されていますが、幾人かの人たちは、主の幕屋に残って務めを続けています。「それは、朝夕絶えず、焼き尽くす献げ物の祭壇の上で主に焼き尽くす献げ物をささげ、主がイスラエルに授けられた律法に記されていることをことごとく守るためであった(40)


ところでレビ記の第6章には「焼き尽くす献げ物」を守る規定が細かく記されています。祭司たちは一晩中、ささげた肉が焼き尽くされるまで寝ずの番をしなければなりませんし、明け方にはくすぶる灰を一か所にあつめて聖所を掃き清め、灰を一か所に捨てなければなりません。さらに、その灰が体にかかると「汚れた」とされ、職務が停止されます。大変な緊張を伴う奉仕です。そのため、「焼き尽くす献げ物」は礼拝への奉仕を現わすと言われてきました。


わたしたちの礼拝も、主日の礼拝を献げるためにどれほど細かい奉仕が伴っているか考えさせられます。準備には、会衆の目に映らない細やかな配慮が隠れています。緊張を伴う役目もあります。まさしく礼拝は、霊的な緊張を伴う神奉仕です。


けれどもその神奉仕を通して、讃美の歌声を神さまの御前に一緒に献げたときに、その群れはダビデたちのように、喜びを共に分かち合う群れとされていくのでしょう。そこには契約を中心として共に奉仕することと、神の民とされ続ける約束との、堅い結びつきがあります。神さまとの和解が、共に奉仕をする民のあいだの結びつきも深めるのです。「シャローム:平和」は、神さまが与えてくださる真実がここにも示されています。


ダビデたちはこの犠牲の献げものを何度も何度も繰り返し、緊張しながら献げなければなりませんでした。そこに、救い主であり大祭司でもあるイエスさまは、わたしどもの代わりに一度きりの尊い犠牲をささげてくださいました。礼拝にはたしかに緊張が伴います。けれども大祭司キリストの霊が群れを満たし、礼拝を導いてくださっていることは、感謝とともに思い起こしたい恵みです。



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