2020年1月5日主日礼拝説教
ヨハネによる福音書第1章14-18節
説教『ふところに安ろう』 牧師 三輪恵愛
1.ヨハネによる福音書のクリスマス「言が肉を取り、人の間に宿られた」
1月6日の公現祭を過ぎると教会のクリスマスも終わります。ツリーなどの飾りを片付けながら「御子イエスさまが人として生まれてくださった」喜びも、心に納めていきます。ヨハネによる福音書のクリスマスは、マタイやルカのように東方の学者もいなければ、羊飼いも天使も出てきません。ただ一点のこと「神である言が肉をとって人々の間に宿られた」奇跡に集中します。クリスマスの本質一点に集中、いわば主題がはっきりした祝福の歌声なのです。それで、ヨハネ1:1-18の福音書冒頭は別名「クリスマス祝歌」とも呼ばれてきました。
2.幼子をクリスマスにお迎えしたけれど、救い主のお姿には及ばない現実
「肉を取って人の間に宿られた(14節)」という言い方に、幼子イエスさまが母マリアの胎内に新しい命となり、お生まれになってはその腕に抱かれる様子を思い起こすでしょう。けれどもヨハネ福音書は、幼子イエスさまを伝えることはマタイやルカに任せて、すぐに洗礼者ヨハネの叫び声を語らせます。「このお方は優れている!」その通り、クリスマスが過ぎ、わたしたちに示されるのは救い主イエスさま。律法で義を立てる人々と対決し、命を投げうって隣人を救い、あらゆる罪を赦し、十字架への道を歩まれるお姿。そこにはもはや胸にお留めした幼子の面影はありません。わたしたちが到底及ばぬ、すべての人を救う方の姿です。
3.父のふところへ。無力さのなかに宿りし神の言が平安に招く。
「クリスマスにはこの胸のうちに幼子を留めたのに」優れた救い主のお姿に、クリスマスの後も主と共に歩もうと新しい思いになったのも束の間、離れていくお姿。無力なわが身の隔たりばかりを知らされます。けれどもヨハネのクリスマスはこうも伝えています。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された(18節)」、イエスさまも言われるのです。「これは神の業が現れるためだった(9:1)」「わたしと父は一つ(10:30)」「わたしが父の内にいる(14:11)」と。神の言が肉を取る、それは永遠が有限のなかに、自由が不自由のなかに、全能が不能のなかに、聖なる存在が罪ある存在のなかに宿る奇跡です。肉を取って宿るほどに父なる神さまはわたしたちをふところに招くのです。無力さのなかに生きるすべての人を、神の子としてふところに迎える平安へ。神の言が肉をとり、肉が神の言を語り始めます。
【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】
« 2020年元旦礼拝説教 | トップページ | 2020年1月8日歴代誌上第13章 »
コメント